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金山宣夫著「旧ソ連ウオッチング」(社会思想社 現代教養文庫 1447)

旧ソ連ウオッチング (現代教養文庫 1447)

本書が出版されたのは一九九二年一一月のことである。

前年の一九九一年八月のクーデター失敗(「八月革命」)とそれに続く共産党解体、そして同年一二月のソ連崩壊、一九九二年初頭のロシアによる価格自由化ショックという、巨大帝国が急速に瓦解していく最中に本書は上梓された。

当時、世界中のメディアや専門家は、冷戦の終結と「民主主義・市場経済の勝利」を盛んに謳い、旧ソ連地域が急速に西側型の社会へと変貌していく未来を甘く予測していた。

しかし、ソ連崩壊から三十四年が経過した現在、本書をあらためてひもとくと、そこに記された先見的な洞察に強い衝撃を受ける。著者は一九六〇年代以来、数度にわたってソ連現地へ渡航した経験があり、そのうえで、比較文化・比較社会学の見地から、表層の政治的ドラマや経済スローガンの裏側に潜む「社会文化的条件」の強固な持続性を浮き彫りにしていた。本書の刊行から三十四年を迎えた現在、ロシアや旧ソ連地域が直面している強権政治の定着、西側との深刻な対立、そして市民社会の未成熟という現実は、まさに本書が予言していた地平そのものである。


本書の根幹をなすアプローチは、著者が「文化透視」と呼ぶ観察・分析手法である。著者は、テレビや新聞が連日報じる「改革」「混乱」「政変」「崩壊」といった大文字のニュースや、政治学的な「クレムリノロジー(クレムリン学)」、さらには経済学の数式モデルといったアプローチの限界を厳しく指摘する。そうした理論や公式発表(「書かれたもの」)は、体制が創出したレトリックや錯覚に過ぎず、現地の真実から人々を遠ざけてしまうからである。

これに対し「文化透視」とは、人々の日常の買い物、行列、ホテルの接客、移動といった泥くさい生活現場(「書かれていないもの」)を直接観察し、その背後にある「人間的要素」や社会的意味を識別する作業である。著者はこの観察姿勢を、「タテ方向の遡及性(歴史感覚)」と「ヨコに広がる比較座標(比較社会・比較文化)」を組み合わせた「複眼的な見方」と表現する。

西側の観察者や日本の「文化人」が陥りがちなイデオロギー的偏見や感情的期待を排し、「アンラーン(白紙からの学び直し)」によって固定観念を脱ぎ捨てること。そして「生の教科書」である生活現場に飛び込み、「えっ、どうして?」という素朴な疑問から出発すること。この方法論こそが、体制の崩壊という歴史的大変動の渦中にありながら、変動の深層に横たわる「変わらない構造」を見抜く鍵となったのである。


本書の前半から中盤にかけて展開されるのは、ソ連社会の凄惨なまでのミクロな日常生活の描写である。その描写は単なる物珍しい旅行記にとどまらず、社会主義体制の構造的欠陥を見事なまでに解剖してみせる。

たとえば、国営航空会社「アエロフロート」や外貨ホテルの実態である。不透明な運航スケジュール、エアコンの不備や故障、便座やトイレットペーパーの不備(ゴルフボールや紙を栓代わりにする日常)、そして「お呼びでない」と言わんばかりの敵対的かつ無責任な接客態度は、単なるサービスの質の低さではない。著者はそこに、顧客や消費者の存在すら認めない「中央集権体制と背中合わせの官僚的無責任主義」を見る。

また、ソ連型計画経済を象徴する「重量第一主義(数量主義)」についても指摘している。ノルマ達成のために製品の重量ばかりが重視され、品質やメンテナンス、安全性が完全に置き去りにされる構造や、酒やアイスクリームまで秤にかけて重さで売買する奇妙な習俗は、人間をただの「数字」や「モノ」として扱う体制の病理であった。

著者は、ソ連の崩壊を外圧や軍拡競争の負担という外部要因だけに求める見方を退ける。一党独裁のもと、すべての物資・価格・人間性を一元管理しようとした「全知全能妄想」が、現場での「体制疲労」を引き起こし、やがて組織犯罪(マフィア)や闇取引を蔓延させ、体制自らを内部から腐食させる「自家中毒」をもたらしたと断定する。この「内部腐食」の分析は、ソ連という国家がなぜ自壊せざるを得なかったのかを見事に説明している。


ソ連崩壊後、西側の政治家や指導者は「市場経済化と民主化」を推し進めれば、同地域が速やかに近代的な市民社会へ移行すると信じて疑わなかった。しかし著者は、こうした楽観論を「魚のスープから水族館をつくる」ような無理な奇跡を期待する幻想に過ぎないと一蹴した。

本書が明かすのは、長年の抑圧から解き放たれた人々が直面した「与えられた自由」の罠である。長年、上からの指令と配給に慣らされてきた社会では、自由は直ちに自己責任や起業家精神には結びつかない。むしろ、マルクス・レーニン主義が植えつけた「悪平等主義」の弊害が表面化し、誰かが努力して成功しようとすると周囲が足を引っ張り合う「嫉妬の文化」が蔓延した。

さらに、物資不足の中で機能した「ウオトカ(国内外貨)」による闇の交換ルートや「コネ万能状況」、公私の融通術――あるいは闇行為――は、体制崩壊後もそのまま残留した。法秩序や市民的規範を欠いた「市場経済化」は、単に私的利害の無限の競合とカオス(無政府状態)を生み出すだけであり、国民は「自由を得た代わりにプライドを失う」という二重拘束(ダブル・バインド)の状況に追い込まれたのである。


二〇二六年の現在から読むと、第六章から第七章で提示される政治心理的な予言は印象深い。著者はこの二章で、急進的な改革がもたらしたカオスと生活苦の中で、旧ソ連の民衆がどのような心理的軌跡をたどるかを正確に予見し、これを「シベリアのジレンマ」と名づけた。厳寒のシベリアで誤って湖に落ちた漁師のように、水中にとどまっても氷上に這い上がっても数分で凍死してしまう絶望的状況である。経済と社会秩序が氷点下の泥沼にはまり込んだとき、民衆の間に湧き上がるのは、エーリッヒ・フロムがかつて提示した「自由からの逃走」の心理であった。

民主主義や議会政治が不毛な空論と足の引っ張り合いに終始し、犯罪と混乱が横行するとき、人々は「民主主義だの議会主義だのを信ぜず、かつてドイツ人がワイマール体制のあとにヒトラーを仰いだのと同じ心理状態」に陥り、秩序を回復し混迷を収拾してくれる「強い腕(強権的指導者)」の出現を熱望するようになるというのである。

「国が物質的にも精神的にも疲弊し混乱した状況では、独裁こそが唯一にして最後の希望の光に見えてくる」——一九九二年の時点で書かれたこの一節は、その後のロシアにおいてプーチン政権が誕生し、国民の圧倒的な支持を背景に強権的な中央集権体制を再構築していった歴史的プロセスを、完全に予言していた。一九九〇年代の混乱を「民主主義の失敗」と捉えたロシア市民が、安心と秩序と誇りの復権を求めて強権的な指導者に身を委ねた軌跡は、まさに著者が本書で警告したシナリオそのものであった。


本書のペン先は、当時の日本政府や外交姿勢にも厳しく向けられている。日本政府は「対ソ援助の条件は資源と人力のマネジメント改善」という正論を唱えつつも、実際には「北方領土返還」と「経済支援」を一対一の直線上に置く、視野の狭い外交に終始していた。著者は、旧ソ連を世界経済に組み込むという世界史的・構想力的な視点が日本外交に著しく欠けていることを、痛烈に批判した。

また、著者は先人の偶像や歴史的ドグマに固執する知的な不誠実さを退け、一度頭を空にして学び直す「アンラーン(unlearn)」の必要性を繰り返し訴えた。過去の過ちを隠蔽せず、偶像を倒した後にこそ客観的な歴史に学ぶべきだという提言は、戦後史の総括や異文化理解において、今なお新鮮な教訓を投げかけている。


本書は単に「ソ連崩壊」という過去の一大イベントを記録した時代文書にとどまらない。制度やイデオロギーという表面的な皮膜を一枚めくったとき、そこに立ち現れる人間の集団心理、歴史的慣行、そして文化の根深さを見事にあぶり出した一冊である。

二〇二六年の今日、我々が国際社会の分断や強権主義の台頭を目の当たりにするとき、本書が提示した「文化透視」と「複眼的な見方」は、なお一層の切実さをもって我々の思考を照らし出す。世界を数字やスローガンだけで理解した気になってはならない。足元の生活現場で生きる生身の人間を直視し、「書かれていないもの」を読み解く真摯な姿勢こそが、いつの時代にも変わらぬ知の原点であることを、本書は雄弁に物語っている。

 

こーんこーと「糖尿病専門医がカイセツ! ドカ食いダイスキ!もちづきさん」

前もって記しておかなければならないことがある。

いつもの記事は記事冒頭の画像をクリックすると Amazon のリンク先へと飛んで当該書籍を購入できるようにしているのであるが、本日の記事はそのようになっていない。画像をクリックしたところで Amazon へと飛んでいかない。

飛んでいかないのは当然で、本日紹介する二冊は Amazon で販売されていない。

どこで販売されているのかというと、同人誌販売サイトである。同人誌というと未成年者お断りの内容の作品も多いことからクレジットカードブランドの中には利用不可としているところがあるなど、いろいろと問題があるが、本作は未成年者お断りの内容などではない。高校生であろうと、中学生であろうと、読んだところで何の問題もない。特に医学部への受験を考えている高校生がいるなら、この同人誌を読んでいるところを見られたところで褒められこそすれ批判されることはないであろうし、文科省や厚労省、あるいはWHOが絶賛するであろう内容の同人誌である。ただ、同人誌という括りのために Amazon では販売されておらず、クレジットカードのブランドの中には利用を拒否しているところもある、そういう書籍である。

 

さて、本作の内容であるが、近年大きな話題を呼んだ『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の主人公とその周囲の人たちの食生活に対し、現役の医師がリアルなアプローチを投げかけるという構成である。

『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』という作品は、主人公の望月美琴が、極限の空腹状態から、高カロリー・高糖質の食事を一気に詰め込み、急激な血糖値上昇で意識が朦朧とする状態を「至る」と呼び、それを至高の快楽として描く作品であり、また、主人公以外の登場人物も一癖も二癖もある食生活を繰り広げている。誰がどう見ても健康に悪いとするしかないのが『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』という作品で描かれる食生活の光景であるが、本書は原作のドカ食いシーンを単に健康に悪いと切り捨てるのではなく、臨床医学の視点から精密に解剖し、「生活習慣病を学ぶうえでのこれ以上ない優れた反面教師・教材」として再定義している。

現時点で二巻まで刊行されており、第一巻は、ドカ食いが引き起こす急性と慢性の病態生理を解き明かす「基礎編」として構成されている。

まず「大食い」と「ドカ食い」の医学的な違いを明確にする。単なる大食漢と異なり、短時間で過剰な食物を衝動的に詰め込むドカ食いの背景には精神的ストレスが密接に関与しており、医学的アプローチが必要な過食行動であると示される。そして、作中で描かれる「至る」という快楽の正体が、急激な「血糖スパイク」とそれに続く「反応性低血糖」であると指摘し、大量の糖質流入により急上昇した血糖値を下げるため、膵臓は短距離ダッシュのごとくインスリンを大量分泌すること、しかし遅れて効いてきたインスリンにより血糖値が急降下することを説いている。作中で望月美琴が経験する「頭がぼーっとして意識が遠のく」状態は、脳へのエネルギー供給が絶たれかけた低血糖症状そのものである。

この短距離ダッシュを何百回と繰り返せば膵臓の瞬発力は失われ、やがて分泌能力自体が枯渇する。空腹時血糖126 mg/dL以上または食後血糖200 mg/dL以上、かつHbA1c 6.5%以上という糖尿病の診断基準を満たす手前の段階であっても、急激な血糖の上下動自体が血管壁を傷つけ、心筋梗塞や脳卒中のリスクを跳ね上げることが解説される。

さらに本書は、生活習慣病の悪循環を「メタボリックドミノ」として体系化する。肥満・内臓脂肪の蓄積から高血圧や食後高血糖が生じ、「しめじ(神経障害・網膜症・腎症)」などの細小血管障害や、「えのき(足壊疽・脳梗塞・虚血性心疾患)」といった大血管障害へと連鎖していく。

圧巻なのは作中の微細なコマに対する病理学的考察である。たとえば、望月美琴が片目をつぶる「ウインク」に対し、著者は「糖尿病性網膜症による眼底出血で視覚障害が生じ、ピントがずれたため無意識に片目をつぶっている可能性」を提示する。フィクションの可愛らしい描写の裏に血管損傷の影を読み解く視点は専門医ならではである。

なお、第五章は「もちづきさんの今後の展開予想」として架空症例カルテを記しており、そこでは足を切断(アンプタ)され、手術直後の絶飲食指示を破って車椅子で病院のコンビニへ赴き、おにぎり十個をドカ食いして血糖値500を叩き出す症例や、脳出血による高次脳機能障害など、リアルな臨床データに基づく末路が提示されるが、これらはすべて実際にあった症例である。望月美琴の今後に起こるとは限らないが、「無症状のまま進行し、取り返しのつかない段階で爆発する」生活習慣病の恐ろしさの前には、非現実的と言い切れない。


第二巻では、第一巻で培った病態知識を前提とし、具体的な数値とエビデンスに基づいた「食事療法の実践編」として展開する。

中でも際立つのは、作中の異常な食生活を「食品換算」で定量的に可視化した点である。原作の「そうめん二十束半」のドカ食いに対し、著者はそうめん一束(約166 kcal)が白米お茶碗約三分の二杯分に相当することを算出する。そうめん十束でお茶碗約七杯分、二十束半となれば一日分の適正摂取カロリー(望月さんの体型では一日あたり1288〜1545 kcal、一食あたり429〜515 kcal)を大幅に超える糖質量となる。数値化により、読者はその異常性を客観的に理解できる。

また、日常の食習慣や嗜好品の罠へも考察を広げている。

菓子パンや清涼飲料水など、加工度の高い食品の過剰摂取が疾患リスクを高める機序といった、超加工食品の危険性。

激辛料理のカプサイシンによる食道破裂(Boerhaave症候群)や脳血管攣縮の症例、ニンニク過剰摂取が抗凝固薬(プラビックス)並みの出血傾向を引き起こし、自発性脊髄硬膜外血腫を招いた事例。

高血糖による脱水を熱中症と勘違いし、清涼飲料水を大量に飲んで高血糖緊急症(ケトアシドーシス)へ陥る負のループ。

こうした日常に潜む罠は、誇張を含む原作が純然たるフィクションではなく、現実にも起こりうる話であることを明示している。

そして、第一巻と同様に未来をシミュレートした架空症例カルテが挙げられ、高血糖の放置で大脳基底核が損傷し四肢が勝手に動く「糖尿病舞踏病」の症例が示される。また、急激な血糖降下治療が逆に網膜出血を悪化させるため、「第一段階として血糖値を200 mg/dL程度を目標に緩やかに下げる」という、臨床上の慎重なコントロールの理由も明かされる。

なお、第二巻では『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』と関係ないものの、現在話題になっている「GLP-1製剤(マンジャロなど)」について一章を設けて説明している。美容目的の自由診療・適応外使用(痩せ薬目的)に対する専門医としての強い警告が発せられていることはニュースなどでも目にする人が多いであろうが、具体的にどのように危険なのかを本書は示している。何しろ、消化器症状、胆石症、急性膵炎、筋力低下などの副作用リスクがあるうえに、法的な問題点も存在しているのだ。

この両巻は、中学生の「みうちゃん」とヤブ医者を自称する「Dr.P」の対話形式を採用し、みうちゃんの素朴な疑問にDr.Pがコミカルかつ冷徹な医学的事実で答えることで、難解な病理学や代謝の仕組みが驚くほどスムーズに理解できるという仕組みになっている。しかし本書の真の価値は、知識伝達にとどまらない温かい人間観と包摂的な健康観にある。

著者は宣言する。「ドカ食いや肥満は絶対悪であり絶対に止めろ、なんて言うつもりは私にはありません」と。体質や精神的ストレスから過食を禁じ得ない人間の弱さを知るからこそ、目指すのは極端な完全主義ではない。「百点満点の生活習慣を死ぬまで続けることではなく、自分ができる範囲のことを長く続けていくこと」「三十点だった生活が三十五点になるだけでも大きな改善の一歩」という姿勢である。病気の仕組みを知ることが無意識のストッパーとなる。この「完璧を求めない予防医学」こそ、現代の医療コミュニケーションに必要な視点である。

この両巻は、原作の強烈なギャグ要素をフックとしながら、裏にある生理学的メカニズム、臨床データ、症例研究、最新の医療問題に至るまで、多角的な知見が濃密に凝縮された、サブカルチャーの解説本を超えた極めて質の高い予防医学のテキストである。

 

最後に、原作である『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の Amazon リンクを添付する。

 

宇山卓栄著「日本の今の問題は、すでに{世界史}が解決している。」(学研プラス)

日本の今の問題は、すでに{世界史}が解決している。

著者は、本書が刊行された二〇一五年時点の日本社会を、出口の見えない停滞感に覆われていると評する。そして、当時の日々のニュース、たとえばアベノミクスに代表される経済政策、膨張を続ける巨額の財政赤字、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)をめぐる対立、少子高齢化に伴う社会保障の動揺、さらには集団的自衛権や領土問題をめぐる安全保障の緊迫は、あたかも日本が過去に例のない未知の危機に直面しているかのような錯覚を、我々に抱かせるものであると訴える。

同時に著者は、「現在、日本が直面している一見複雑な諸問題は、世界史の過程で幾度も繰り返された現象であり、そのメカニズムと処方箋は歴史の中にすでに示されている」とも述べている。ビスマルクの名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」を引きながら、著者は歴史を単なる年表の暗記ではなく、現在を解き明かし未来を予測するための「動態的な構造知(パターン法則)」として再定義する。本書は、歴史の巨視的視座から現代日本の主要課題を照らし出し、読者に冷徹な思考のフレームワークを提供する良質な文明批評・政策論である。


本書の最大の強みは、現代の政策論争や社会問題を、世界史上の具体的な制度・事件・思想と直接対比させ、その深層構造を浮き彫りにする点にある。

【本書が解き明かす現代日本の課題と世界史的対比】

  • 経済・財政
    コンドラチェフ波動の第六波/ブルボン朝フランスのデフォルト vs 英国コンソル債
  • 貿易・産業
    TPPの自由貿易論 vs 十九世紀英国穀物法廃止・プロイセン関税同盟(リスト主義)
  • 社会保障・人口
    ビスマルクの社会保険体制/ナポレオン法典(均分相続)が生んだフランスの少子化
  • 外交・安保
    ハンチントン『文明の衝突』批判/中国覇権主義の歴史的DNA(「高水準均衡の罠」)

 

著者は日本経済の立ち位置を、約五十年周期で巡る「コンドラチェフ・サイクル(技術革新による長期波動)」の文脈のなかに位置づける。十八世紀末の蒸気機関から、鉄道、重化学工業、電気・自動車、精密機械・ITを経て、現在の第六波(シェール革命、IT、エコバイオ)に至る軌跡をたどり、日本経済の現在地を明らかにする。

さらに重要なのは、千兆円を超える日本の国債・財政赤字問題に対する歴史的比較である。著者は、十八世紀フランスのブルボン朝が財政赤字を放置し、特権階級の抵抗で改革に失敗し、デフォルトとハイパーインフレを経てフランス革命へと至った悲劇を詳述する。これに対し、名誉革命後のイギリスが「コンソル債(無期債)」により信頼性の高い国債制度を確立し、低金利で資金を調達して世界覇権を握った史実を対比させる。日本国債の自国通貨建てによる安全性を認めつつも、プライマリーバランスの黒字化を先送りする姿勢が、ブルボン朝の末路に似たリスクをはらむと冷徹に警告する。

続いて著者は、TPPへの加盟問題を、十九世紀の国際貿易史から解き明かす。一八四六年のイギリスにおける「穀物法廃止」をめぐる論争では、リカードの「比較生産費説」に基づく自由貿易派と、国内農業の保護を主張するマルサスらとの対立を描く。加えて注目されるのは、リストの「保護貿易論」に基づくプロイセン主導の「ドイツ関税同盟(一八三四年)」や、米国初代財務長官ハミルトンによる自国の未熟な産業の保護政策の分析である。産業革命を達成した強者が自由貿易を唱える一方、後発国が国力を育てるには適切な保護貿易と関税自主権が不可欠であったという歴史的法則を抽出する。そのうえで、TPP交渉で日本が基幹産業をいかに守り、どのような関税戦略を採るべきかという現実的教訓を導く。

そして著者は、社会保障や労働倫理のあり方を、キリスト教思想史やヨーロッパの法制度から掘り下げる。新約聖書の「働かざる者、食うべからず」に端を発し、カルヴァンの宗教改革がもたらした勤労の美徳が近代資本主義を支えた歴史を概観したうえで、一六〇一年のイギリスの「エリザベス救貧法」や一八三四年の「新救貧法」を分析する。真に貧しい「働けない者」と「働かない者」を厳格に区別し、過度な給付によるモラルハザードを回避しようとした英国の救貧政策の功罪を検討する。

さらに、現代日本の喫緊の課題である「少子化」に関し、十九世紀フランスの歴史的経験を提示する点は示唆的である。ナポレオン法典の「均分相続」により土地の細分化を恐れた農民が出生を抑制した結果、フランスは深刻な人口停滞に陥り、ドイツに国力で逆転を許した。制度設計の不備が意図せざる人口減少を引き起こす事実から、現代日本の少子化対策に強い警告を発する。

続いて、国際政治と安全保障が論じられる。著者はハンチントンの『文明の衝突』説を「対立の本質は宗教や文明の差ではなく政治的・経済的利害の衝突である」と退け、地政学的リアリズムの立場をとる。

特に一章を割いて論じられる中国論は注目に値する。古代の春秋戦国時代(「臥薪嘗胆」「屍に鞭打つ」の故事で知られる伍子胥)から清朝、現代の共産党政権に至るまで、中国の行動様式を貫く「復讐と執念の政治文化」を抽出する。また、十八世紀の清朝が巨大な人口によって「労働コストゼロ」となり機械化の動機を失ったとされる「高水準均衡の罠」を引用し、中国の構造的脆弱性と、外征・覇権主義へ向かう歴史的力学を明快に説明する。

本書が単なる歴史解説書にとどまらず、優れた文明批評となっている理由は、次の三点に集約される。

  • 概念の架橋力
    専門的な歴史・経済理論(アセモグルとロビンソンの「包括的制度 vs 収奪的制度」、イブン・ハルドゥーンの「アサビーヤ」など)を、現代日本の議論へ見事に架橋している。
  • 自国中心主義からの脱却
    日本の安全保障や開国・鎖国論を、感情論ではなく世界史上の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の観点から客観化している。
  • ニュースのノイズ除去
    日々の報道の表面的な騒がしさから読者を解放し、問題の本質的な「骨組み」を浮き彫りにしている。

 

一方で、本書が依拠する「世界史的解決」のフレームワークには、慎重な検証も必要である。

第一に、現代における技術的・構造的な不可逆性の問題である。過去の人口減少や経済循環は、農業・初期工業社会の現象であった。しかし、現代日本が直面する超高齢化や人工知能(AI)の進展は、世界史上のどの文明も経験したことのない未曾有の領域である。歴史的パターンからの類推だけに依存すると、現代特有の構造変化を見落とす危険がある。

第二に、現代の金融資本主義の質的変容の問題である。十八世紀のブルボン朝や十九世紀イギリスの債務危機と、管理通貨制度や中央銀行の大規模資産買い入れが行われる現代の国債市場とでは、資金循環のメカニズムが異なる。自国通貨建て国債の発行主体が直面するリスクを、過去の金属貨幣時代のデフォルト事例と同列に扱うには、慎重さが求められる。

しかし、これらの限界を考慮しても、本書の「歴史の構造から学ぶ」アプローチの有効性は揺らがない。過去の類似事例を知ることで初めて、何が歴史の再現で何が現代特有の課題かを識別できるのである。

本書は単なる歴史の教養書ではない。断片的なニュースに振り回される現代日本人に対し、歴史という先人たちの膨大な「失敗と成功のデータベース」を活用せよと迫る一冊である。歴史の構造を理解することは、過去に生きることではない。それは、現在を正確に診断し、より確かな未来の選択肢を手にするための最強の武器となる。

 

網野善彦&石井進著「米・百姓・天皇:日本史の虚像のゆくえ」(ちくま学芸文庫)

米・百姓・天皇 ──日本史の虚像のゆくえ (ちくま学芸文庫)

明治以降の近代国家建設、そして戦後の高度経済成長期を経て、我々が知らず知らずのうちに内面化してきた日本史の通念がある。すなわち、「日本人は古代から一貫して米を主食とし、水田を耕す単一の稲作農耕民族であり、天皇を中心とする同質的で平穏な国家を形作ってきた」という物語である。

しかし、この自画像は果たして歴史の真実を捉えているのだろうか?

本書は網野善彦と石井進の両氏による対談録であり、その対談において両者は、この強固に定着した「日本史の虚像」を根底から解体し、多様で流動的な歴史の実態を深く掘り下げた。本書の書名に掲げられた「米」「百姓」「天皇」の三つのキーワードは、従来の歴史認識が拠って立つ最大のドグマであり、同時に両者が真っ向から挑む批判の標的でもある。

二人の歴史家は、膨大な古文書・荘園絵図・民俗資料、さらには考古学や文献史学の最新成果を縦横無尽に駆使しながら、対話という開かれた形式を通じて、自律的で多角的な日本社会論を展開していく。本書が提示する鋭い問題提起は、単なる歴史学の専門的議論にとどまらず、現在を生きる我々の「日本人観」そのものを根本から問い直す確かな強度を備えている。

 

本書はまず、「日本人は古来、米を主食として生きてきた」という「稲作単一文化論」を虚構としている。

両者は、若狭国太良荘をはじめとする荘園文書の財産目録や被害目録、さらには『斐太後風土記』などの近世・近代の記録を詳細に分析し、庶民の日常食の実態を可視化する。そこに浮かび上がるのは、米ばかりを食べていた人々の姿ではない。実際の庶民の主食は、ヒエ、アワ、キビ、ムギ、ソバなどの雑穀や芋類、あるいは魚介類や海藻であり、きわめて多角的な食生活(複合生業)が営まれていたのである。特に東日本や山間部、沿岸部においては、水田稲作以外の生業が地域経済の基盤をなしていた。

では、なぜ米ばかりが日本社会の中心に据えられてきたのか。両者は、それが「庶民の主食」としてではなく、「支配者が年貢・税として徴収し、国家を統合するための基準(価値尺度の媒介物)」として機能していたからだと指摘する。飛鳥時代から平安時代初期にかけての律令国家は、中国の律令制を受容するにあたり、自らの統治基盤として水田稲作と米による課税体系(班田収授法・公地公民制)を強力に推進した。すなわち、米こそが日本の本質であるという見解は、庶民の現実の暮らしから生じたものではなく、支配層が創出したイデオロギー的表象に過ぎなかったのである。

さらに本書は、江戸時代の「石高制」や明治政府の農本主義政策が、米中心の歴史観をいっそう強化した構造を解き明かす。米はハレの日の食であり、神への奉納物や貨幣的な媒体として特別な視線を注がれてはいたが、それを国民全体の日常食と混同することこそが、歴史の実態を覆い隠す第一の虚像なのである。

 

次いで本書は、「百姓」という語の概念規定を解体していく。近代以降の通念において、「百姓」という語は「田畑を耕す純粋な農民」の同義語として扱われてきた。しかし、歴史上の「百姓」とは本来、農民のみを指す言葉ではなかった。

中世史料に登場する「百姓」のなかには、漁民(海民)、木こり(山民)、職人、商人、馬借や船主といった運送業者、芸能民など、多種多様な生業に従事する人々が広範に含まれていた。彼らは田畑の耕作のみならず、山野や海、河川の恵みを活かした「複合的な生産」に従事し、独自の商取引や流通ネットワークを張り巡らせていたのである。

本書は、この多様な「百姓」がなぜ「純粋農民」へと狭められてしまったのか、その歴史的背景を鋭く追究する。江戸時代の身分観念、そして何より明治政府が近代的な戸籍制度や徴税システムを構築する際、多様な生業に従事する人々を一括して「農」の範疇に押し込めたことが決定的な転換点となった。これによって、林業、水産業、手工業、商業などの多角的な生業は「農業の副業」へと貶められ、歴史の表舞台から消し去られたのである。

また、両者が強く告発するのが女性の生産労働の隠蔽である。養蚕、織物、行商、醸造、さらには貨幣管理に至るまで、中世から近世の生産・流通において女性は決定的な役割を果たしていた。しかし、明治以降の近代史学や公的統計は、戸主(男性)中心の農民像を標準としたため、女性たちの多大な経済的貢献と姿を歴史から消してしまった。本書は、史料の裏に隠された女性や非農業民の自律的な営みを掘り起こすことで、「百姓=農民」という硬直した歴史像に決定的な打撃を与えている。

 

そして本書は、「天皇」および「日本」という国号の成立と、その支配が及ぶ範囲をめぐる問題を追究する。

本書は、「日本」という国号や「天皇」という称号が、天武天皇から文武天皇にかけての時期に、中国大陸の唐帝国や朝鮮半島との緊迫した国際関係のなかで創出された国家構想であったことを論じる。それ以前の「倭国」から「日本」への転換は、単なる名称の変更にとどまらず、国家としての自立と東アジアにおける政治的権威の主張を込めた重大な画期であった。

しかし、両者が強調するのは、律令国家が描いた「日本」という枠組みと、日本列島各地の実際の社会構造との間には大きな差異と多元性が存在していたという事実である。とりわけ本書では、「東国(東日本)」と「西国(西日本)」の著しい相違、そして北方世界の蝦夷やアイヌ、あるいは南方世界の琉球や奄美の独自性が浮き彫りにされる。

たとえば西国が米による年貢体系を軸としたのに対し、東国では早くから絹や布、馬などの産物、あるいは現物や貨幣による交易が活発であり、中世においては鎌倉幕府に代表される東国独自の権力基盤が形成された。また、北方や沿岸部における海上交通・交易の広がりは、国家の枠組みを超えた環日本海・東アジア規模のネットワークを形作っていた。皇室のあり方と農本主義(新嘗祭など)が不可分の関係として構築され、神聖な権威を誇示する一方で、実際の列島社会は決して単一の支配構造に服していたわけではないのである。

 

本書の議論は、中世社会における経済的活力と差別の問題へとも波及する。

二人は、日本の中世社会が、通説で説かれるような「閉ざされた自給自足の農本社会」ではなく、きわめて活発な商業、流通、金融(為替・割符)、そして都市の発達を見た「重商主義的」な熱気にあふれていたことを示す。鎌倉・室町期には、関所の設置や市場の開帳、貨幣経済の浸透(宋銭・明銭の流入)が顕著であり、在来の商業用語(株、手形、合資、相場など)に表れる商慣行は極めて高い成熟度を誇っていた。そうした在来の仕組みが、明治以降、西洋の経済学用語の翻訳語によって上書きされたことで、自律的な商業史の脈動が見えにくくなったと指摘される。

同時に、本書は差別と被差別の起源にも鋭いメスを入れる。中世において、神社や寺院、天皇などの神聖な権威に直属し、関所の通過や課役の免除といった特権(公界・無縁の自由)を得ていた職人、芸能民、河原者(非人)たちが、なぜ近世以降に強固な差別構造のなかに閉じ込められていったのか。両者は、近世幕藩体制が推し進めた厳密な身分統制と農本主義的再編、そして都市における環境や生業の空間的分断(河原や境界地への隔離)が、差別の制度化と観念の固定化をもたらしたプロセスを論証する。差別問題もまた、単なる歴史の影ではなく、農本主義的イデオロギーと都市化の交差点で生み出された「構造的産物」であったことが明らかにされる。

 

本書は、過去の歴史事実を掘り起こすにとどまらず、現代に生きる我々の認識のありようを強く揺さぶる一冊である。

明治政府が創出した「単一民族・純粋農耕国家」というイデオロギーは、昭和の不条理なナショナリズムへと結実し、形を変えて現代の日本社会論や文化論のなかにも重く尾を引いている。本書は、こうした「作られた虚像」を徹底的に批判・検証することで、日本列島の歴史が本来持っていた「多様性」「流動性」「多角的生業」「異文化との接点」を鮮やかに解き放ってみせる。

網野善彦と石井進という二人の類いまれな巨頭が交わしたこの対論は、歴史学が果たすべき真の役割、すなわち、時代の共同幻想を解体し、人々の思考を自由にする営みを見事に体現している。

 

西尾幹二著「全体主義の呪い:東西ヨーロッパの最前線に見る」(新潮選書)

全体主義の呪い: 東西ヨーロッパの最前線に見る (新潮選書)

私事であるが、ベルリンの壁やソ連崩壊をはじめとする東西冷戦の終結はリアルタイムで体験した世代である。地理の教科書に載っている国が地上から消え、地図帳に載っている国がその名を変える瞬間をニュースで目の当たりにしてきた衝撃は今も消えない。その衝撃を残したままあらためて本書を読み直すと、当時とはまた違った感想が思い浮かぶ。

 

一九八九年のベルリンの壁崩壊と東欧革命、そして一九九一年のソ連解体は、二十世紀後半の対立軸であった東西冷戦構造に劇的な終止符を打った。西側世界が「自由と民主主義の勝利」という単純な楽観論に沸き立つ中、思想家・ドイツ文学者の西尾幹二は一九九二年春、中欧の最前線であるプラハ、ベルリン、ワルシャワへと足を踏み入れた。

新潮選書より一九九三年に刊行された本書は、単なる旅の記録やジャーナリスティックな情勢分析の域をはるかに超えた著述である。本書は、著者が現地で激動の過渡期を生きる政治家、哲学者、地下出版の編集者、さらには秘密警察の犠牲となった市民らと交わした濃密な対話の記録であり、そこから紡ぎ出された重厚な政治哲学・現代文明論である。

東欧の現場で西尾が目撃したのは、共産主義の抑圧から解放された人々の無条件の歓喜ではなかった。そこに渦巻いていたのは、四十年に及ぶ抑圧の記憶、突如与えられた「自由」に対する深い困惑、そして加害と被害が分かちがたく錯綜する「過去の克服」という出口なき葛藤であった。本書は共産主義体制の落日を描きつつも、その批評の刃を旧東欧の苦悩にとどめず、現代の西側自由主義社会そのものと人間の精神の根源的な弱さへと向け直している。

 

本書における優れた学術的・思想的洞察の一つは、ハンナ・アーレントなどの全体主義理論を踏まえつつ、現地の証言を通して「前期全体主義」と「後期全体主義」の質的変容を鮮やかに定立した点にある。

スターリンやヒトラーに代表される「前期全体主義」は、狂信的なイデオロギーと絶対的独裁者のパーソナリティ、そして見せしめ的なテロルを駆動力とする「運動」であった。そこでは「客観的な敵」が常に新しく指名され、社会全体が激越な熱狂と殺戮の渦に巻き込まれた。

これに対し、一九六八年の「プラハの春」以降に東欧を覆ったのは、そうした熱狂が急速に冷却した「後期全体主義」であった。チェコのヴァーツラフ・ハヴェル大統領の弟や哲学者のイジー・ペハル氏らが著者に語ったのは、熱狂的な革命家ではなく「顔を持たない官僚たち」が管理する冷淡な日常である。指導者も市民ももはやイデオロギーを信じておらず、ただ保身のために嘘の演劇を日常的に演じ続けていた。

この後期全体主義の特質は、責任主体の徹底的な不可視化に求められる。重要な指令は文書を残さず電話で発せられ、官僚機構の複雑なクッションの奥深くに消失する。権限の出所が不透明であるからこそ、市民は「どこから来るとも知れない恐怖」に脅かされ、生き延びるために体制へ自発的に適応せざるを得ない。旧東ドイツの秘密警察(シュタージ)が構築した巨大な網の目のなかで、市民同士、さらには夫婦や親子間ですら密告が行われる相互監視の地獄が常態化した。誰もが罪の分け前を担わされ、加害者であり被害者でもあるという逃げ場のない「カフカ的真空」が生み出されたのである。

 

前編「罪と罰」において展開される中心的な対立軸は、全体主義の過去をいかにして裁くかという「過去の克服」をめぐる難問である。

プラハの地下出版編集者ズビニェク・ヘイダ氏は、ナチスも共産主義も同質の「人道に対する罪」であり、「集団の罪」という概念を排して「個人の責任」を徹底的に追及すべきだと主張する。古代以来の法と正義の観念に立ち返り、たとえ上からの命令に従っただけであっても不法行為に手を染めた個人の責任を明確に裁くことこそが、真の法治国家を確立する道であるとする強い道徳的立場である。

対して、ペハル氏や法律家のイエジェク氏らは、この個人責任論に深い疑念を投げかける。責任主体を組織的に隠蔽してきた体制下において、現在の視点から「主体の自由」が存在したと仮定して個人を裁くことは、結局は末端の実行犯やカードの残った浅薄な協力者だけを処罰する新たな「魔女狩り」にしかなり得ないという指摘である。真の黒幕や上級官僚は証拠を消去して平然と逃げ延び、市民同士が泥沼の告発合戦を繰り広げる事態を招く。ハヴェル大統領の「誰もが少しずつ罪がある」という言葉が示すように、全体主義が浸透した社会において、特定の個人だけを悪に仕立て上げる裁きは、かえって人々の自己保身と自画自賛の二重の欺瞞を覆い隠す手段になりかねない。

著者はここで、ヘイダの主張する「過酷な正義」と、ペハルらの「構造的悪の受容」という二つの立場の対立を凝視しながら、ヤスパースの『責罪論』やアドルノとホーホフートの論争などを引いて思考を深めていく。戦後ドイツが行った「過去の克服」やニュルンベルク裁判もまた、勝者の自己貫徹の論理や、敗者側の「主体の自由がなかった」という集団的自己防衛の企てと不可分であった。全体主義という巨大な構造悪を裁くにあたり、人間はいかなる基準に立つべきかという問いは、安易な正義観を根底から揺さぶる普遍的な悲劇性を帯びている。

 

後編「自由の恐怖」において、著者の探究は東欧の現場から、解放された人々の精神的混迷、そして西側自由主義社会の病理へと大きく旋回する。

長年の暗黒体制から解き放たれた東欧の人々は、希望以上に激しい不安に苛まれていた。旧東ドイツが旧西ドイツに吸収される過程で見られたように、西側の「圧倒的な購買力」と「効率至上主義」という単一の尺度が押しつけられ、東の人々が重ねてきた四十年の苦悩や歴史意識は軽蔑され、無効化された。心理学者ハンス=ヨアヒム・マーツの分析を交えながら、著者は資本主義や市場経済を絶対視する西側の傲慢な構造を批判する。

さらに本書の真骨頂は、ソルジェニーツィンのハーバード大学講演などを引きつつ展開される、西側情報化社会・自由主義社会に対する痛烈な異議申し立てにある。

「自由の過剰」が生み出す精神の弛緩、マス・メディアによる無責任な世論操作、あらゆる価値を数値や統計に還元する管理思考といった、悪への自由をも無節度に許容する西側の「ソフトな秩序」は、一見すると全体主義と相反するように思われるが、人間の自律的精神や「主体の自由」を内部から侵食していく点において、きわめて深い親和性を持っている。

西尾は、現代社会において最も警戒すべきは、古典的な暴力的テロルや軍事独裁ではないと警告する。「平和」「環境」「人権」「平等」といった、誰もが異論を唱えられない「絶対善」の旗印を掲げ、それに反する者を排斥・制肘していく言説の支配こそが、次の時代に襲いかかる「新しい全体主義」の萌芽であるという指摘である。責任主体を欠いたまま、巨大な情報の網の目の中で人間が記号化されていく構造は、旧東欧のシュタージが作り上げた暗黒社会と本質において何ら変わりがない。

 

本書は冷戦終結という歴史の画期に著された一冊でありながら、三十年以上が経過した今日において、むしろその予言的価値をいっそう増している。インターネットやSNS上で「絶対的な正義」を盾に行われる集団的な私刑、巨大なデータネットワークによって無意識のうちに思考と動機が誘導される情報社会、そして「正しい言葉」による異論の抹殺。我々が現在直面している状況こそ、著者が旧東欧の廃墟の残滓から見通した「顔なき後期全体主義」の具現化にほかならないのではなかろうか。

「全体主義は人間の墓場である」——本書が提示するこの悲痛な結語は、自らを「自由な世界」の住人であると過信している我々に対し、自分自身もまた「全体主義の呪い」の渦中に生きているのではないかという猛烈な覚醒を迫ってくる。

ジョン・B・ジュディス&ルイ・テイシェイラ著,古川範和訳,会田弘継解説「アメリカ民主党 失敗の本質: 「中間層・労働者」は、なぜ「トランプ支持」に突き動かされたのか」(東洋経済新報社)

アメリカ民主党 失敗の本質: 「中間層・労働者」は、なぜ「トランプ支持」に突き動かされたのか

本書の著者らは、かつて「民主党による圧倒的多数派の形成」を予測した左派・リベラル派の代表的論客である。その著者らが、自らの陣営である民主党が、なぜかつての強固な基盤であった労働者階級や中間層に見捨てられ、ドナルド・トランプの不条理とも思える政治的旋風を招き寄せるに至ったのかを、冷徹なデータと歴史的検証によって暴き出している。

本書が描くアメリカ社会の地殻変動は、決して遠い他国の政治劇にとどまらない。父母の世代が体験した豊かな暮らしを、次世代が得られなくなっているという不可逆的な没落感、そして新たな社会問題の発見と糾弾に熱中しながら、庶民の救済にはまったく寄与せず、かえって状況を悪化させるリベラル勢力という二つの構図は、現代日本、とりわけ就職氷河期世代が直面してきた構造的苦痛と驚くべき相似形を描き出している。

 

本書が明かす民主党敗北の根底にあるのは、世代間の経済的上昇の停止と中間層の没落である。フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策以降、アメリカのブルーカラー労働者は強力な労働組合に守られ、高卒であっても家を持ち、安定した医療と年金を享受し、子供を大学へ送ることができる「豊かな中流の暮らし」を手にしていた。彼らにとって民主党は、大資本や金融エリートに対抗して自らの生活を守ってくれる「庶民の党(Party of the Common People)」であった。

しかし、一九七〇年代以降の脱工業化、新自由主義的グローバリゼーション、NAFTA(北米自由貿易協定)や中国のWTO加盟に伴う自由貿易の推進、そしてウォール街主導の金融化によって、かつて繁栄した工業地帯(ラストベルト)の工場は閉鎖され、良質な雇用は急速に消滅した。「自らの子供たちが、自分たち親の世代のような経済的安定や豊かな暮らしを得ることができない」という現実が重くのしかかり、地域社会と家族の絆は解体へと追い込まれた。

この構図は、現代日本の「就職氷河期世代」がたどった苦難と重なる。バブル崩壊後の失われた数十年間において、日本の氷河期世代は非正規雇用の拡大と賃金の低迷にさらされ、親世代(昭和・バブル期)が当然のように享受していた「終身雇用・標準的な生活水準・家族形成」というライフコースから締め出された。親の世代が築いた豊かな中流社会の記憶を持ちながら、どれほど努力してもその水準に届かないという際限のない没落感と不条理——それこそが、アメリカのラストベルトの労働者と日本の氷河期世代を貫く共通の心的外傷(トラウマ)である。

トランプが掲げた「Make America Great Again(アメリカを再び偉大に)」というスローガンが労働者階級に爆発的な支持をもって迎えられたのは、彼らが抱く「親世代が享受していたかつての繁栄へのノスタルジー」と「置き去りにされた怒り」を、既存政治の中で唯一拾い上げたからにほかならない。

 

なぜ民主党は、これほどまでに苦しむ労働者階級を見捨てたのか。本書は、民主党が「庶民の党」から「大卒専門職・都市部エリートの党」へと変質を遂げたプロセスを克明に描く。

ビル・クリントン政権以降、民主党は新自由主義を受け入れ、ウォール街やシリコンバレーのハイテク企業、大財団や高学歴専門職層と強固な同盟を結んだ。彼らは「グローバリゼーションとIT革新」を称揚し、製造業の空洞化に苦しむ労働者に対しては「学び直し」や「スキルアップ」という自己責任論を押しつけた。

実体経済における再分配政策や労働組合の強化から撤退したリベラル勢力が、自らの存在意義と倫理的優越性を誇示するために傾斜していったのが、「文化の急進主義(アイデンティティ・ポリティクス)」である。大学キャンパス、大手メディア、NGO、IT企業を拠点とするリベラル・エリートたちは、人種、ジェンダー、性的指向、環境(気候変動)といった領域で次々と「新たな社会問題」を発見・定義し、言葉の定義を書き換え、規範に沿わない者を「差別主義者」「無知」「不寛容」として猛烈に糾弾するポリティカル・コレクトネス(PC)の政治に没頭した。

しかし、この「新たな社会問題の発見と糾弾」は、日々の生活苦や生活物資の高騰にあえぐ中間層・労働者階級の救済には何一つ結びつかなかった。日々の支払いや家賃、子供の教育費に苦しむ人々にとって、専門用語で飾られたジェンダー論争や「白人の特権(ホワイト・プリビレッジ)」に対する自己批判の強要は、彼らの実質的な苦痛を無視するむなしい空中戦に過ぎなかったのである。

 

さらに深刻なのは、リベラル勢力のこうした姿勢が労働者や庶民の生活・立場を救済しないどころか、むしろ著しく悪化させたという点である。本書はその具体例をいくつも挙げている。

第一に、「気候緊急事態」を叫ぶ過激な環境政策(グリーン・ニューディールなど)の強行である。化石燃料の即時廃止や急進的な脱炭素目標の導入は、エネルギー価格の高騰を引き起こし、ガソリン代や電気代の上昇となって直ちに労働者の家計を直撃した。伝統的な製造業やエネルギー産業に従事する地方の労働者の雇用を奪いながら、都市部の裕福な環境アクティビストが道徳的満足感を得るという構図は、地方と中間層の経済的困窮をさらに加速させた。

第二に、治安維持の軽視と社会の分断である。二〇二〇年のBlack Lives Matter(BLM)運動の際、リベラル左派は「警察の予算削減(Defund the Police)」や刑事司法の極端な緩和を主張し、都市部の犯罪急増を招いた。その被害を最も直接的に受けたのは、警備コストを払えない低所得地域の住民や労働者たちであった。

第三に、道徳的蔑視による精神的・社会的孤立の悪化である。リベラル・エリートは、伝統的な家族観や宗教的価値観を保持し、過激な文化変容に戸惑う庶民を「嘆かわしい人々(deplorables)」や「時代の取り残され者」と蔑んだ。経済的に追いつめられたうえ、自らの道徳観や誇りまでもが日常的に否定され糾弾されるという二重の暴力によって、庶民の社会的孤立感と政治的疎外感は極限に達したのである。

 

本書が描き出すアメリカ民主党の病理は、現代日本社会に対する強烈な警鐘となっている。

日本においても、就職氷河期世代の老後不安、若年層の低賃金化、実質賃金の低迷、地方の疲弊といった構造的な生活の苦痛が放置される一方で、メディアや政治、知識人層の議論は、しばしば欧米から輸入されたアイデンティティ問題や不適切発言の糾弾、あるいは特定の言動に対するポリティカル・コレクトネスの強制へと傾斜している。

生活の基盤が崩落し、将来への希望を失っている人々に対して、実質的な経済的救済措置や雇用の再構築を提示することなく、「新たな差別の発見」と「道徳的糾弾」ばかりを繰り返す政治や言論は、庶民から見れば「高みの見物を決め込むエリートの説教」でしかない。

救済なき糾弾は、苦しむ人々の疎外感を煽り、既存の知識人やメディア、革新政治に対する深い不信と激しい反発(バックラッシュ)を醸成するだけである。日本政治がこの罠を回避するためには、本書の訴えに照らせば、「文化戦争」の急進主義を退け、国民の大多数を占める普通の人々の「経済的安寧、生活の安定、良質な雇用の確保」というニューディール的・普遍的課題へと政治の軸足を力強く戻すことが不可欠である。

 

本書は、単なる一国の政局分析を超えて、庶民の生活、特に物質的基盤を忘れた政治がいかに自壊し、社会を分断させるかを証明した歴史的論著である。

父母の世代が享受した豊かさを得られず、日々の生活に苦しむ人々に真に必要なのは、道徳的糾弾や理念の強制ではなく、確実に生活を支える実質的な経済的救済と誇りの回復、そして、正当な評価である。

氷河期世代をはじめとする多くの生活者が将来不安に直面する現代日本において、自らの置かれた状況を客観的に解剖し、真に求められる政治の姿を模索するために、本書はまさにいま紐解かれるべき必読の一冊と言えよう。

 

正垣泰彦著「サイゼリヤ:おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ」(日経ビジネス人文庫)

サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ (日経ビジネス人文庫)

日本の外食産業において、圧倒的な低価格と高品質を両立させ、確固たる地位を築き上げたファミリーレストランチェーンがサイゼリヤである。そのサイゼリヤの創業者である正垣泰彦氏が著した本書は、単なる一企業の成功譚や経営ノウハウ本にとどまらない。本書は、感性や経験則に頼りがちであった外食ビジネスを「科学(サイエンス)」へと昇華させ、顧客本位の原点に立ち返らせる強力な経営思想書である。

多くの飲食店経営者は「自分たちの店の料理はうまい」「良いものを作っていれば不景気でも売れる」と信じがちである。しかし著者・正垣は、この考え方を、地球が宇宙の中心だと考える「天動説」と同じ、自分本位な錯誤であると断じる。売れない理由を「客が悪い」「立地が悪い」「景気が悪い」と他者のせいにする姿勢からは、何の改善も生まれないからだ。

真の商売とは、自分たちの思い込みを捨て、世の中の客観的構造と客の反応を科学的に観察することから始まる。本書のタイトルでもある「おいしいから売れるのではない、売れているのがおいしい料理だ」という一言には、主観的な自我を徹底的に排し、顧客に支持されているという客観的事実のみを真実とする、サイゼリヤ経営の根本哲学が凝縮されている。

本書において最も示唆に富む指摘の一つが、「絶対的においしい料理など存在しない」という論理である。著者は、料理の「おいしさ」や「まずさ」は味付けや素材そのものだけで決まるのではなく、その店が提供する「利用用途(TPOS: Time, Place, Occasion, Style)」と顧客の期待が一致しているかどうかで決まると説く。

年に一度の「ハレの日」に利用される高級レストランであれば、料理人が手間暇をかけた濃厚で複雑な味が求められる。しかし、サイゼリヤが目指すのは「毎日でも食べられる日常食」である。日常食に求められるのは、余計な味付けを排し、素材本来の良さを生かしたシンプルで体になじむ味わいである。もし高級店の濃厚な味を日常食の店で提供すれば、客はすぐに食べ飽きて足が遠のいてしまう。

このように、用途に合わせた料理を提供できているか否かを測る唯一の客観的指標が「客数」である。抽象的な「顧客満足度」などを追うのではなく、「客数が増えていれば正しい行動であり、減っていれば間違った行動である」と捉え、PDCAサイクルを回し続ける。客数こそが、顧客が喜んでくれたかどうかの唯一のバロメーターなのだ。

また、顧客にストレスを与えず安心して注文してもらうための価格戦略も徹底している。一品あたりの価格は、その国で最も売れている消耗品(日本においては週刊誌やタバコなど)の価格を基準とし、手軽に支払える水準に設定される。さらに、パスタやピザなどのカテゴリー内における最高値と最安値の差を「二倍以内」に収めることで、メニュー選びの心理的負担を取り除いている。単品売りではなく、前菜から主菜、ワインまでを自由に組み合わせる「コーディネート(アソートメント)」を楽しんでもらうことこそが、サイゼリヤが提示する「食の豊かさ」の正体なのである。

サイゼリヤの驚異的な高収益と低価格を支えているのが、外食産業を「製造直販業」として再構築したシステムである。

一般的な飲食店経営者が陥りやすい過ちは、「利益を出すために食材の質を落とす」という安易なコスト削減である。著者は「料理の味の八十%は食材の質で決まる」と断言し、個人店であっても原価率は四十%以上あってもよいと説く。サイゼリヤは原価率を下げて利益を出すのではなく、徹底的な無駄の排除と生産性の向上によって利益を捻出している。

そのために構築されたのが、種子の開発から直営農場での栽培、自社工場(カミッサリー)での加工、そして店舗厨房に至るまで、食材の温度を常に四度に保つ高度なコールドチェーンシステムである。セントラルキッチンを単なる「調理場」ではなく「生産管理技術者が集う工場」と位置づけ、搬送時の温度・湿度・振動による品質劣化を防ぐ技術革新を重ねてきた。

さらに店舗運営においては、「人」ではなく「作業」に着目した標準化(IE:インダストリアル・エンジニアリング手法)が徹底されている。ホール作業から無駄をそぎ落とし、「一番優秀な人間の名人芸を、誰にでもこなせる作業に落とし込む」ことで作業レベルの下限を引き上げていく。看板メニューである「ミラノ風ドリア」に至っては、香りと味の微調整を重ねて千回以上の改良が行われており、華やかな新メニューの連発ではなく「核商品を磨き続けること」こそがヒットを生むと主張している。

どれほど優れた経営システムであっても、それを動かす人間の心が伴わなければ機能しない。サイゼリヤの根底を支えているのが、「人のため・正しく・仲良く」という経営理念である。

  • 人のため
    顧客に喜んでもらうことを最優先とし、客数増を追求すること。
  • 正しく
    作業を標準化し、常に一定水準以上の品質・サービスを正しく提供すること。
  • 仲良く
    従業員同士が互いを尊重し、公正で客観的な評価基準のもとで心を一つにすること。

著者は、外食産業で働く人々の賃金水準が他産業より低い現状を憂慮し、自動車産業並みの高給を支払える組織を作ることを目指してきた。そのために、十年間で二百項目におよぶ現場作業から管理業務までの習熟度チェックリストを運用し、能力開発のステップをオープンに示している。教育とは口先で伝えるものではなく、業務を通じて「良き習慣」を体に染み込ませることなのだという確固たる信念がうかがえる。

また、トラブルや不振に直面した際、著者は「他人のせいにせず、原因はすべて自分の中にある」と考える仮説検証の姿勢を徹底する。失敗とは単に手法が間違っていたというデータに過ぎず、失敗から学ぶことでしか真の成功には至らないという科学者的な謙虚さが貫かれている。

本書の説得力をいっそう高めているのが、著者が直面してきた数々の壮絶な逆境の実話である。

創業間もない頃、客同士の喧嘩から石油ストーブが倒れて店舗が全焼し、借金だけが残る絶望的な状況に追い込まれた。しかし著者はその極限状態の中で「本場のイタリア料理のおいしさを日本に広めたい(La Buona Tavola)」という自身の原点・ロマンを思い出す。再開した店舗で客が来ない打開策としてメニュー価格を「七割引」にまで引き下げた結果、一日二十人だった客数が一挙に六百〜八百人へと激増し、連日行列ができる大繁盛店へと生まれ変わった。この原体験こそが、サイゼリヤの低価格・高品質と多店舗展開の起点となったのである。

この「逆境において創業理念に立ち返る」パターンは、その後の海外展開でも再現される。二〇〇三年に進出した中国・上海事業において、当初は日本と同じ価格帯で大苦戦を強いられた際、社内の値上げ論を退け、似鳥昭雄氏(ニトリホールディングス会長)からのアドバイスも受けつつ、価格を三分の一(七割引)へ引き下げる大決断を下した。その結果、一日百人しか来なかった店舗に三千人の行列ができ、中国市場での圧倒的成長の扉が開かれたのである。

儲け主義で海外へ進出するのではなく、「現地の人々に安く良質な食文化を提供し、生活水準の向上に貢献する」というロマンと理念を貫いたからこそ、異国の地でも絶大な支持を得ることができたのだといえる。

本書は、飲食業界の関係者のみならず、現代社会で働くすべてのビジネスパーソンにとって深い洞察を与える至高の経営書である。

著者が提示するメッセージの核心は、以下の三点に集約される。

  1. 自らの主観やこだわり(自我)を捨て、顧客の行動や客観的データに基づき「事実の前で謙虚になる」こと。
  2. 精神論に頼らず、仕組み・標準化・技術革新によって生産性を極限まで高め、生み出した成果を顧客と従業員に還元すること。
  3. 目先の利益に惑わされず、「人を幸せにし、社会に貢献する」という理念とロマンを持ち続けること。

「商売とは心を磨く修業の場であり、人間らしく生きるための素晴らしい営みである」という正垣泰彦氏の熱い思想は、変化が激しく不確実な時代を生きる我々に、ビジネスの真のあるべき姿と勇気を与えてくれる。