我々が自明のものとして暮らす都道府県や市町村という行政区画。しかし、地図上に引かれた一本の境界線は、自然に発生したものではない。そこには、古代から現代まで、国家権力が民衆を把握し統治しようとしてきた意志と、それに適応あるいは対抗してきた地域社会の闘争の履歴が幾重にも堆積している。
著者はバブル崩壊後、GIS(地理情報システム)の「全国町丁目大字界地図データベース」の企画開発に関わり、境界線の曖昧さに直面したことが境界の歴史を調べる原点になったという。修士論文をベースに執筆された本書は、単なる地方制度の沿革史にとどまらず、空間を人為的に区分する境界という営みを通じて、日本人がどのように空間を認識し、「ふるさと」を形成してきたかを探究するドキュメントである。
本書の前半で目を引くのは、日本の地方区分が持つ驚くべき歴史的連続性である。
日本の「国(クニ)」は、大和政権による国郡制度の導入に始まり、大宝律令を経て、天長元(824)年には全国六十八ヶ国として画定された。ちなみに、一般的に六十六とされることが多いが、これは先に六十六ヵ国という言い方が確立して固定化された後に令制国が増えた結果である。このときに誕生した、薩摩、土佐、甲斐、信濃といった令制国名と領域は、その後の天下統一や江戸幕府の支配を経ても解体されることなく継承された。人々が「ふるさとに帰る」ことを今なお「国(クニ)に帰る」と呼ぶ背景には、律令時代から変わらなかった強固な区分が、人々の風土やアイデンティティと深く結びついていたからである。
著者は、現存する最古の日本全図とされる「行基図」や「南瞻部洲大日本国正統図」を紹介し、これらの地図において世界の中心は常に都――その多くは平安京のある山城国――に置かれ、周囲には架空の「羅利国」や「雁道」が描かれていた。中世の日本人が抱いた世界観はこの国郡の範囲に収まっており、それは地図のなかに生きていたのである。
こうした支配構造の末端を支えたのが、中世から近世にかけての「村」である。江戸期の村は、検地を村単位で受け、年貢や諸負担を村全体で請け負い、独自の村役人を置いて自主的に運営された。さらには近隣の村との「山論」や「野論」といった境界紛争において、現在の感覚で行くと法人格を持った状態で裁判に挑む存在でもあった。豊臣秀吉の「村切り」によって画定されたこれらの「行政村」は、極めて高い独立性を持つ生活共同体であったのである。
律令制から途切れることなく蓄積されてきた国>郡>里≒村の三層構造を、近代的中央集権国家へと塗り替えていったのが、明治維新期の廃藩置県である。
明治4(1871)年の廃藩置県は、知藩事を罷免し、中央から官選知事を派遣する大改革であった。しかし当初は旧藩の支配地や飛地をそのまま引き継いだため総数は300を越え、下総国海上郡(現在の千葉県銚子市付近)では、わずかな領域の中に佐倉県や高崎県など6つもの県の飛地が混在する事態となった。政府はこれらの飛地を整理するため、第一次、第二次の府県統合を強行し、明治21(1888)年の香川県再置をもって現在の47都道府県が確定した。
ただし、このあとで第三次の府県統合が検討されており、これが実現すると都道府県の数は47よりもっと少なくなる想定であった。明治36(1903)年に内務省で作成されながらも幻に終わった「府県廃置法律案」の紹介である。これは北海道と沖縄を除く45の府県を26府県にまで強引に大統合するものであった。この案では、岩手県南部を宮城県に、茨城県南部を千葉県に編入し、栃木・群馬と茨城北部を宇都宮県にし、静岡県の東部を神奈川県に、西部を愛知県に分割編入することになっていたなど、現在の視点からすると違和感を覚えるものの、府県の統廃合や新設が日常であった明治時代では、自然地勢や河川の流域、歴史的な広域経済圏を極めて合理的に反映した再編案であった。言わば、今日議論されている道州制や、あるいは平成の大合併を先取りした、極めて先進的かつ冷徹な空間の官治的デザインであったともいえるのである。
都道府県の成立と並行して、民衆に身近な町村のレベルでも、近代国家の都合による再編が進められた。著者はここに、自律的な「まち」や「むら」が、国家の行政末端としての「町村」へと変容・矮小化されていく「暴力性」を読み取る。
明治5年の「大区小区制」は、伝統的な村社会の慣習を完全に無視し、税収や徴兵の効率性のみを追求した極めて不評な制度であった。その後一時的に「郡区町村編制法」で伝統的町村が復活したものの、それも長くは続かなかった。
明治22(1889)年の「市制町村制」、いわゆる「明治の町村大合併」は、全国に7万以上あった町村を一気に1万5000ほどに減少させた。これによって消滅した江戸時代以来の旧村は、単なる地名表記上の「大字(おおあざ)」へと変格された。自治権を剥奪された「大字」は、意思決定の主体ではなく、新設された巨大な新町村のなかに包摂された一集落へと堕したのである。
さらに著者が強い懸念を示すのは、戦後の昭和37(1962)年に制定された「住居表示法」による地名の解体である。画一的な運用によって、鍛冶屋町、材木町、小川町といった自然地形や歴史的な文化に由来する由由緒ある旧町名が次々と消滅し、無機質な記号へと書き換えられていった。著者はここで、東京都千代田区における「神田猿楽町」「神田三崎町」の地名復活運動や、金沢市における旧町名復活制度、大分県豊後高田市での市民運動の成功を温かい眼差しで紹介する。歴史的な地名とは、そこに生きた人々の生活の記憶が刻まれた無形の文化遺産であり、それを合理性の名のもとに消し去ることは、地域のアイデンティティそのものを消滅させるに等しいと著者は警告している。
そして、本書の議論は最終的に、人口減少社会において、この国の空間をいかに管理すべきかという切実な問いへと収斂する。
日本は、平成20(2008)年に1億2800万人超のピークに達した後、急激な人口減少時代に突入した。この縮小社会において、政府が主導した平成の市町村大合併は、極めて大きな歪みを生み出した。合併後の市町村は、面積が県よりも広い岐阜県高山市から、最小の富山県舟橋村まで、実に627倍もの格差を抱えることとなった。この格差は住民サービスの格差を招き、中心部への予算集中による旧周辺部の急速な限界集落化を加速させた。本庁舎がなくなった旧自治体区域では、合併後の15年間で人口が17%以上も減少したというデータは、合併が地方の衰退をむしろ加速させた現実を示している。
これに対するこれからの広域行政のあり方として、著者は都道府県の枠組みを超える「道州制」や、自治体が緩やかに連携する「連携中枢都市圏構想」を提示する。福山市を中心として岡山・広島両県にまたがり連携する「備後圏域」の事例は、現在の都道府県という境界が実態と乖離してきたかを示していると著者は指摘する。
そして著者が最も有力な解決策として提示するのが、市町村内部の「地域自治区」制度である。その模範事例として挙げられるのが、平成の大合併によって14の市町村が合併した新潟県上越市の試みである。上越市は、旧上越市の区域を除く合併前の旧13の町村の区域にそれぞれ地域自治区と自治区事務所、住民参加による地域協議会を設置した。さらに旧上越市の区域にも新たな15の地域自治区を設け、全域を28の自治区として再編した。これにより、広大化した新市の行政に埋没しがちな旧町村や旧集落の住民が、地域の防災や福祉などの身近な課題について自ら意見を表明し、主体的に決定できる仕組みを担保している。
自治会や町内会の負担が限界に達するなかで、法律に基づき、すべての住民が構成員となる地域自治区という住民自治のインフラは、縮小社会における生活の質を維持するための、最も現実的な処方箋であると著者は語る。
著者が本書を通じて私たちに見せてくれるのは、単なる制度の沿革や数字のデータではない。それは、地図の上に描かれた一本の境界線に宿る、人々の切実な「生」の痕跡と、国家という統治機構による冷徹な「意思」のせめぎ合いである。
今に生きる我々は、住む場所の境界を、当たり前の不動のものと考えてしまいがちである。しかし、本書を読むと、まさに境界こそが歴史のダイナミズムそのものであり、絶えず変化し続けてきた「器」であることが理解できる。人口が急激に減少し、拡大を前提としたインフラが維持できなくなるこれからの時代、私たちは再び境界の引き直しについて根本的な決断を迫られる。
そのとき、過去の権力者がいかに空間をデザインし、それに対して民衆がどのように自律的なコミュニティを守り、育んできたかという歴史の知恵は、私たちが未来の日本社会を構想するための道標となるはずである。









