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おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

ニーアル・ファーガソン著,柴田裕之訳「大惨事(カタストロフィ)の人類史」(東洋経済新報社)

大惨事(カタストロフィ)の人類史

本書が書き記されたのは、COVID-19の世界的流行の渦中、多くの人が未知の感染症に恐懼し、外出を控えるようになり、経済が止まり、いまだワクチンが開発されていない段階であった。

著者は歴史上繰り返されてきた感染症の猛威だけでなく、地震や噴火といった自然災害、戦争や虐殺、地政学的崩壊、さらに原子力事故や航空機事故といった技術的惨事までを包括的に横断し、人類を襲うカタストロフィ(大惨事)の構造的解剖を試みている。本書の最大の特徴であり優れて独創的な主旨は、あらゆる惨事を単なる「外生的な天災」や「予測不能な不運」として片付けることを拒絶し、「すべてのカタストロフィは本質的に政治的・社会的な現象である」という持論を鮮やかに裏付けている点にある。病原体そのものや物理的な破壊は自然界の事象であっても、それが社会にどれほどの惨禍をもたらすか、あるいは未然に防ぎ得た被害を拡大させてしまうかを決定づけるのは、常に人間の組織と政治のあり方にほかならないからである。

人類は古来、予言や宗教的エスカトン(世の終わり)、あるいは現代の歴史周期説や数理モデルを用いて未来の災厄を予測しようと試みてきた。しかし著者は、歴史的な大惨事の発生時期や規模を正規分布(ベルカーブ)によってモデル化し予測することは原理的に不可能であると断じる。戦争、パンデミック、金融危機、技術事故の発生頻度と死亡者数は、大半が正規分布ではなく「べき乗法則(パワーロー)」に従うためである。

著者は、ナシーム・ニコラス・タレブの提唱する予測困難な「ブラック・スワン(黒い白鳥)」や、極端な連鎖反応を引き起こす「ドラゴン・キング(竜の王)」、さらにはカオス理論の「バタフライ効果」や「スケールフリー・ネットワーク」といった知見を網羅的に導入し、惨事の発生メカニズムを説明する。小規模な初期エラーや極小の病原体が、複雑系としての人間社会に投入された瞬間、予期せぬ相転移(位相変化)を起こして壊滅的な破滅へと増幅されるのである。また、危機を事前に察知しながらも周囲に信じてもらえない「カサンドラ的予言者」のジレンマや、都合の悪い警告を退ける人間の「認知バイアス」が、危機の未然防止を阻む根深い心理的障壁となっている点も浮き彫りにされる。

歴史的大惨事の原因を探る際、人々は往々にして指導者の無能や暴政、あるいは現場(フロント)の作業員の突発的エラーに責任を帰しがちである。しかし、本書の最も鋭い洞察は、歴史上の惨事の真の病因が「中間管理職」の不全と官僚機構の病理に隠されていることを証明した点にある。

著者は、歴史を揺るがした代表的なケーススタディを比較分析する。一九一二年のタイタニック号沈没事故では、氷山への激突そのもの以上に、無線手や航海士、会社幹部における個別の小さなエラーの積み重ねと、救命ボートの規定に代表される硬直化した制度設計が悲劇を決定づけた。一九八六年のスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故においては、現場の技術者たちが低温下でのOリング劣化のリスクを警告していたにもかかわらず、打ち上げスケジュールの維持や予算獲得を優先するNASAの中間管理職がその声をもみ消し、悲劇的な「集団思考(グループシンク)」に陥っていた。さらに同年のチェルノブイリ原発事故では、ソビエトの一党独裁下における情報隠蔽体質、権力の分散の欠如、安全基準よりもノルマ達成を重んじる官僚主義的保身が、原子炉の構造的欠陥と相まって破滅的爆発を招いた。

この構造は、二〇二〇年より全世界で繰り広げられたCOVID-19のパンデミックにおける先進国の初期対応の失策においても残酷なまでに再現された。アメリカのCDC(疾病対策センター)やイギリスの公衆衛生当局は、事前に精巧な感染症パンデミック計画を策定していたにもかかわらず、硬直化した手続きと官僚主義的肥大化ゆえに、未知のウイルスに対して柔軟かつ迅速なPCR検査の拡充や初期封じ込めを実行できなかった。これに対し、二〇〇三年のSARSの教訓から学び、行政の垂直的硬直を廃してデジタル技術と機動的ネットワークを駆使した台湾や韓国、シンガポールなどのアジア諸国・地域が初期封じ込めに一定の成功を収めた事実は、体制の優劣以上に「行政機構の柔軟性と学習能力」がいかに生死を分けるかを如実に示している。

現代社会は、航空網や通信網によって史上最も密接に連結された「スケールフリー・ネットワーク」を形成している。この高度な相互接続性は人やモノの移動を劇的に効率化させた反面、局所的なショックがハブ(中核拠点)を経由して一瞬で地球全体へと波及する極めて高い脆さを抱え込むこととなった。

さらに著者は、生物学的ウイルスの伝播にとどまらず、SNSやインターネット・プラットフォームを介して拡散する陰謀論やフェイクニュースといった「インフォデミック(情報のパンデミック)」の脅威に強い警鐘を鳴らす。科学的ファクトや公衆衛生上のガイドラインが政治的イデオロギーや不信感によって歪められ、社会の分断が深化する現象は、パンデミックの物理的被害をさらに悪化させた。また、このパンデミックは米中間の地政学的対立を一層先鋭化させ、相互の責任転嫁と情報戦による「米中新冷戦」の構図を決定的なものとした。歴史上、ペストやスペイン風邪などの大惨事が帝国の衰退や体制の崩壊を加速させたように、過度なグローバル化と米中二極対立の狭間で揺れる現代の国際秩序もまた、大惨事という触媒によって大きな転換点を迎えているのである。

本書を通じた著者の結論は非常に明快である。私たちは次のカタストロフィが「いつ」「どのような形」で襲来するかを正確に予測することはできない。気候変動、サイバー攻撃、未知の病原体、あるいは核戦争といった脅威のどれが次の破壊となるかは不確定である。

だからこそ、私たちが歴史から汲み取るべき真の教訓は、当たらない予言に頼ることではなく、破滅的ショックに耐えうる社会政治体制の「レジリエンス(回復力)」を高めることにほかならない。そのためには、過度な官僚的肥大化と硬直化した意思決定プロセスを解体し、現場からの警戒警報が迅速にトップに届く分散型ネットワークと透明性のある責任体制を再構築しなければならない。

本書は単なる過去の惨事のカタログではなく、不可避な不確定性に満ちた世界で人類が生き残るための「政治的処方箋」であり、複雑化する現代社会を生きるすべての指導者と市民にとって必読の「文明の診断書」と言えるだろう。

古谷圭一著「中世キリスト教の自然と科学技術」(ディスカヴァーebook選書)

中世キリスト教の自然と科学技術 (科学技術とキリスト教2) (ディスカヴァーebook選書)

西洋史において、中世は長らく暗黒時代と称されてきた。キリスト教の教条主義が人間性を抑圧し、古代ギリシャ・古代ローマの輝かしい学問や科学技術の発展を阻害したという見方は、今なお根強いステレオタイプとして存在している。

しかし、本書はそうした歴史的偏見を、確かな史実と精緻な論理によって鮮やかに打ち破る。

著者の古谷圭一氏は、東京大学で工学博士号を取得し、分析化学や環境化学を専門とする自然科学者でありながら、長年にわたりキリスト教神学と科学技術史の交差点を研究してきた異色の経歴を持つ。自らキリスト者でもある著者は、理系・文系の枠組みを超えた複眼的な視点から、中世ヨーロッパおよびイスラーム世界で育まれた自然哲学と技術的実践こそが、近現代の科学技術を生み出す真の苗床であったことを実証的に描き出している。

本書の大きな特色の一つは、西欧中世の科学技術を閉じたキリスト教世界内部だけで捉えるのではなく、ユーラシア規模のダイナミックな知識伝播の流れの中に位置づけている点にある。

第1章および第2章において著者は、アレクサンドリアを中心とするヘレニズム世界の古代知が、ササン朝ペルシアやシリアの知識人らを経由してイスラーム世界へと受け継がれたプロセスを追跡する。中世イスラーム社会では、ギリシャの哲学や数学、医学文献が熱心にアラビア語へ翻訳され、イブン・ハイヤーン、アル・ラージー、イブン・シーナーといった偉大な学者たちによって飛躍的な独自発展を遂げた。

そして12世紀、トレドやシチリアなどを通じた「翻訳運動」によって、これらのアラビア語文献およびギリシャ語原典がラテン語へと翻訳され、西欧世界に「12世紀ルネサンス」をもたらす知の濁流となった。古代ギリシャの知的遺産はキリスト教西欧へ直接継承されたのではなく、イスラーム世界の高度な知を橋渡しとして受容されたという史実は、西洋中心主義的な科学史観に対する強力な異議申し立てとなっている。

第3章と第4章では、キリスト教神学がどのように「自然」を捉え直し、近代科学の萌芽となる自然哲学を育んだかが論じられる。

オリゲネス、アウグスティヌス、バシレイオスといった初期の教父たちは、聖書解釈において字義どおりの解釈だけでなく比喩的・自然論的解釈を認め、「自然界は神が創造した秩序ある体系であり、その法則を探求することは神の知恵を知る道である」という自然観を基礎づけた。この思考は、中世後期のスコラ哲学へと受け継がれていく。

コンシュのギヨームやオッカムのウィリアム、ニコラウス・クザーヌスらの思索に見られるように、中世の学者たちは神の全能性と自然の客観的法則性を両立させようと試み、数学的・合理的な分析手法を培った。また、トマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学の受容や、ダンテの『神曲』に結実した宇宙観は、天界から地上の物質界に至る幾何学的かつ調和のとれたコスモスを表現している。中世キリスト教は科学を抑圧したのではなく、むしろ「自然界には神の合理的な法則が働いている」という信念を与えることで、後の科学革命の思想的土壌を創出したのである。

その後の第5章および第6章で展開される「技術観」と「修道院」の分析において、著者は次のことを書き記している。古代ギリシャ・ローマ社会では、肉体労働や技術作業は奴隷の担うべき卑しい仕事とされ、知識人の関心事から排除されていた。これに対し、キリスト教は労働の価値を根本から反転させたのである。ベネディクト会のモットーである「祈り、かつ働け(Ora et labora)」に象徴されるように、手作業や技術活動は霊的成長と奉仕の重要な手段として肯定された。著者は、キリスト教における技術観を「人間が神の創造事業を補助し、与えられた自然を適切に維持・管理する『スチュワード(管理者)』としての役割」と定義している。そのうえで、この労働観の転換が具現化したのが、ベネディクト会やシトー会などの修道院である。修道院は、自給自足と救済事業のために農業や工業の技術革新を主導した。重輪犁(深耕用の重い犁)、馬の首当てや蹄鉄による牽引技術の改良、三圃制農業の導入は、ヨーロッパの農業生産性を劇的に向上させた。さらに修道院は、製粉・製材・金属加工・鉱山開発に水車動力を全面的に活用し、まさに「中世における技術革命」を牽引する産業・技術センターとして機能したのである。

後半の第7章から第9章にかけては、建築、化学の萌芽、都市社会という具体的・実践的な技術の現場へと視点が注がれる。

  • 教会堂建築(第7章)。古代の幕屋やバシリカからロマネスク、そしてゴシック大聖堂への進歩は、単なる美術史上の様式変化ではなく、高度な構造力学の勝利であった。尖頭アーチ、フライング・バットレス(飛梁)、リブ・ヴォールトの工夫により、より高く、光の満ちる巨大空間を支える技術が結実した。
  • 錬金術(第8章)。一見すると魔術的に見える錬金術も、古代オリエントやイスラームから精錬・蒸留技術を継承し、実験器具の改良や酸・アルカリの発見を通じて、現代化学の実験的基礎を固める重要な前段階であったことが明かされる。
  • 職人ギルド(第9章)。中世都市の発展とともに形成された職人ギルド(ツンフト)は、見習い・職人・親方という徒弟制度を通じてノウハウを伝承し、品質管理と相互扶助を行った。大工の聖ヨセフや石工の聖ペテロといった「守護聖人」を仰ぐことで、職人たちは個々の技術に宗教的意味と倫理的規範を与えていた。

本書は優れた歴史解説書であるにとどまらず、現代の過剰な技術社会に対する鋭い倫理的提言を含んでいる。現代社会は、科学技術の肥大化、環境破壊、そして人間中心主義的な傲慢さという深刻な課題に直面している。こうした時代において、中世の人々が抱いていた「技術は神から託された能力であり、人間は自然の所有者ではなく管理者(スチュワード)に過ぎない」という謙虚な自己理解は、極めて重い意味を持つ。

豊富な図版や年表を配し、専門的知見を極めて平易かつ客観的な文章で解き明かした本書は、西洋中世史や科学史のファンのみならず、現代技術のあり方に悩むすべての人々に深い示唆を与える一冊と言える。

 

ピーター・バーク著,井山弘幸訳「知識の社会史2:百科全書からウィキペディアまで」(新曜社)

知識の社会史2ー百科全書からウィキペディアまで

本書は、1450年から1750年までを扱った前著『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』の続編であり、フランスのディドロらによる『百科全書』の刊行(1751年)から、デジタル時代の象徴である「ウィキペディア」の開設(2001年)を経て21世紀初頭に至る約250年間の「知識の近代・現代史」を描き出している。

rtokunagi.hateblo.jp

バークの企てる「知識の社会史(A Social History of Knowledge)」とは、単なる学説史や思想の内部的変遷(内在史)を追うものではない。知識が生み出され、分類され、流通し、消費される「制度」「空間」「人間集団」という外在的・社会的環境に光を当て、知識を社会的な生成物として解き明かす試みである。本書において著者は、18世紀の啓蒙思想から現代のデジタル情報空間に至る知の変容を、直線的な「進歩の物語」として単純化することを厳しく戒め、対立する複数の傾向が引き合う動的な歴史——いわば「知の歴史生態学」として描き出している。

 

本書はまず、「情報(Information)」と「知識(Knowledge)」の明確な峻別から議論を起こす。単に集められただけの無加工な「生の素材(raw materials)」が「情報」であるならば、それを人間や集団が処理・吟味し、体系化した「調理されたもの(cooked materials)」こそが「知識」にほかならないとする点は、前著と変わらない。

バークはこの知識化のメカニズムを、諜報活動で用いられる分析モデルになぞらえ、以下の四つの段階(CADA)に区分して分析する。

  1. 収集(Collection)
    探検、フィールドワーク、質問票、録音、観察、保存書庫などを通じた情報の獲得。
  2. 分析(Analysis)
    収集された情報の分類、解読、年代決定、計数・測定、比較、理論化。
  3. 普及(Dissemination)
    書物、定期刊行物、大学の講義、展示、視覚教材を通じた知識の伝達と大衆化。
  4. 利用(Application/Employment)
    検索システム、国家政治、産業・実業、戦争、帝国支配における知識の活用。

この四段階のフレームワークを通じ、著者は「知」が単に象牙の塔に引きこもった学者たちの純粋な好奇心だけで生み出されたのではないことを鮮やかに暴き出す。たとえば、ミロのヴィーナスがルーヴル美術館に、ロゼッタストーンが大英博物館に収蔵された経緯には、近代国家や帝国の軍事的探検と収奪(略奪)という暴力的な「収集」の歴史が刻まれている。また、18世紀以降のプラントハンターや文化人類学者による現地調査も、植民地統治という帝国主義的な要求と深く結びついていた。

さらに、知識の「普及」のプロセスにおいては、古いメディアが新しいメディアに一方的に淘汰されるという単純な年代記を著者は拒絶する。18世紀における印刷本と写本の関係がそうであったように、現代における印刷メディアとインターネットもまた、競合しつつも分業しながら共存しているという視点は、今日のメディア論にとっても極めて示唆的である。

 

そして著者は、知識の爆発的増加と近代科学の進展は、人間社会に多大な利益をもたらした反面、甚大な「代価」を要求したと指摘する。その最たるものが、「博識家(ポリマス)」の没落と「専門化(Specialization)」の加速、そしてそれに伴う「知識の喪失(Loss)」である。

18世紀まで、百科全書派に象徴される知識人は、自然科学から人文・社会思想までを統合的に俯瞰する「博識家」としての文化的地位を保持していた。しかし、19世紀以降、知識の量が個人の記憶・受容能力を超えて爆発的に増大するにつれ、学問は細分化され、学会や専門誌を中心とする「専門家(スペシャリスト)」の時代へと突入した。この専門分化は、個別領域における高度な分析を可能にした一方で、学問相互の対話を断絶させ、知的統一性を解体する結果となった。

より深刻なのは、知識の蓄積と並行して生じる「知識の喪失・破壊」の側面である。バークは、知識の獲得が常に古い知識の廃棄や忘却(経済学者シュンペーターの言う「創造的破壊」)と表裏一体であったことを指摘する。

  • 権力やイデオロギーによる破壊・隠匿
    アレクサンドリア図書館の焼失からナチス・ドイツによる焚書、ソビエト大百科事典における政治的敗北者の項目抹消に至るまで、政治的権力は不都合な知識を歴史の「屑籠」へと投げ捨ててきた。
  • 産業・企業秘密と「情報封建主義」
    中世のギルドが技術(手わざ)を秘匿したように、現代の巨大企業や研究機関は特許をはじめとする知的財産権を通じて知識を囲い込み、公表を制限している。
  • 敗者の見解の喪失
    西洋中心主義や勝利者の歴史記述によって、植民地化された地域のローカルな伝承や、非主流派のパラダイムが「無用な知」として切り捨てられてきた。

このように、歴史の中でいかに多くの知識が隠匿され、削除され、あるいは意図的に忘れ去られてきたかを掘り起こすバークの視座は、知識の蓄積ばかりを礼賛する楽天的な情報社会論に対する強烈なアンチテーゼとなっている。

 

そのうえで著者は、知の全体像を「地理学」「社会学」「年代学」という三つの立体的な軸から整理し直す。

(1) 知識の地理学(Geography of Knowledge)

知識は決して抽象的な真空の中に存在するのではなく、常に特定の「場所」や「空間」に根ざしている。研究室、天文台、図書館といったミクロな空間から、中心と周縁の葛藤、そして知識の「国有化(Nationalization)」と「グローバル化(Globalization)」に至る地理的展開が論じられる。チェコの田舎で執筆されたため30年間無視されたメンデルの遺伝学論文の例が示すように、知識が普及し「普遍的真理」と認められるためには、地政学的な中心地との接続が不可欠であった。

(2) 知識の社会学(Sociology of Knowledge)

知識の生産・維持には多大なコストが伴う。バークは「知識の政治学・経済学」の視点から、19世紀末のドイツや第二次世界大戦後の米ソ冷戦期における「巨大科学(Big Science)」の隆盛と、国家・企業資本による研究支援の構造を解き明かす。また、知識労働者の多様化に目を向け、大学教授や研究者だけでなく、図書館員、ジャーナリスト、さらには従来、歴史の表舞台から隠されてきた女性や労働者階級の知的な営みにも正当な光を当てている。

(3) 知識の年代学(Chronology of Knowledge)

1750年以降の250年間を、著者はいくつかの画期に区分する。

  • 1750–1800年:社会的改革を志向した「知識の改革」の時代
  • 1800–1850年:大学改革や研究機関の設立に伴う「知識革命」の時代
  • 1850–1900年:学問分野の興隆と専門化の本格化
  • 1900–1950年:二つの世界大戦と「知識の危機」
  • 1940–1990年:コンピュータと巨大科学による「技術化する知識」の時代
  • 1990年以降:情報爆発とデジタル化による「再帰性の時代」

ここで重要なのは、著者がこれらの変化を単線的な発展ステップとして捉えていない点である。歴史の中では、常に正反対のベクトルに作用する不確定な力が交錯している。国有化と国際化、世俗化と超俗化、専門化と学際化・アマチュア化(市民科学)、標準化と個別化といった諸傾向は、互いに抵抗し合い、時に不規則な拮抗状態を保ちながら共存してきた。この相反する力の動的平衡こそが、知識の社会史の核心をなしている。

 

そして著者は、デジタルネットワーク時代における知識の「民主化」と「再帰性(Reflexivity)」について考察する。

2001年にジミー・ウェールズらによって創設された「ウィキペディア」は、従来の『百科全書』や『ブリタニカ百科事典』が保持していた専門家による中央集権的な編集権限を解体し、「誰でも・いつでも・どこでも編集できる」オープンな共有のエートスを打ち立てた。これは、18世紀に花開いた知識の民主化の理想が、デジタル技術と結びついて実を結んだ鮮やかな一例である。

しかし、バークの視線は単なるデジタル賛美にとどまらない。ウィキペディアというシステム自体が、絶えず追記され、修正され、時には議論によって項目が削除されるという「再帰的」な性質を帯びていることに注目する。社会が自らの知識体系を観察し、その知識に基づいて自らの知識慣行を書き換えていく「再帰的社会(Reflexive Society)」の出現である。

デジタル時代の「知識の爆発」は、膨大なデータへのアクセスを容易にした一方で、真偽の疑わしい情報の氾濫や、過去のデータの安易な削除(デジタルな忘却)という新たな「情報不安(Information Anxiety)」をもたらしている。このような状況下で本書が示すのは、過去250年間に人類が直面してきた「情報過多への対処法(インデックス、カードカタログ、百科事典、分類体系)」の試行錯誤の軌跡であり、それは現代のデジタル時代の混沌を生き抜くための土台となる。

 

本書の最大の功績は、我々が当然視している「知識」「学問」「情報」という概念が、歴史的に構築された流動的なものであり、常に権力、メディア、空間、社会構造と切り離せない関係の中で変容してきた事実を明らかにした点にある。

百科全書からウィキペディアに至る二世紀半の歩みは、人類がいかにして膨大な情報と格闘し、それを共有し、時に失いながらも再構築してきたかの記録にほかならない。現代の高度情報化社会、そして人工知能(AI)が知識の生産・収集を自動化しつつある新たな転換期において、本書が提示する「知の歴史生態学」的視座は、我々が自らの立ち位置(現在地)を正しく見極め、未来の知のあり方を構想するための不可欠な道標となるに違いない。知識の未来に関心をもつ研究者、学生、そして現代の「情報の海」を泳ぐすべての人にとって有用な一冊となるはずである。

 

ピーター・バーク著,井山弘幸&城戸淳訳「知識の社会史:知と情報はいかにして商品化したか」(新曜社)

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

ネットの普及による情報氾濫が危惧されるようになったのはいつからであろうか。今を生きる我々は当然のこととして受け入れているが、21世紀になるまでは考えられないことであった。

ただ、歴史を振り返ると、こうした情報氾濫は今に始まったことではないと思い知らされる。少し前であれば考えられなかった量の情報が世にあふれ、従来の情報量であれば対応できていた知の仕組みが、情報氾濫の前に通用しなくなり、新たな知の仕組みが構築される。その繰り返しが連綿と続いてきたことを歴史は教えてくれる。

その歴史を書き記しているのが本書である。

本書は、グーテンベルクによる活版印刷の発明から、ディドロらによる『百科全書』の刊行に至る近代初期(Early Modern Period)ヨーロッパを主たる対象とし、知識の社会的・経済的・制度的変容の軌跡を描き出した傑作である。本書は単なるアイデアの歴史にとどまらず、知識がどのような社会的実践や市場メカニズムを通じて生産・分類・管理・消費されたのかを鮮やかに解明している。

本書の冒頭において著者が提示する最も重要な理論的視座の一つは、「情報(information)」と「知識(knowledge)」の対置、そして「知の複数性」に対する目配りである。バークは便宜上、「情報」を処理されていない「生の素材(raw materials)」と定義し、他方、「知識」を思考によって吟味・加工され、体系化された「調理された素材(cooked materials)」として明確に区別する。アヴィセンナの医学書や古典的文献のようなアカデミックな知識だけでなく、職人や商人、船乗り、助産婦、あるいはイスラム法学者(ウラマー)や行政官たちが蓄積した実用知・暗黙知、さらには東インド会社で取引される商品価格やパリの職業案内所で交わされる家政婦斡旋の情報に至るまで、社会のなかで「知」として通用していたあらゆる領域を分析対象へと引き上げる。

この知的アプローチの背景には、カール・マンハイムをはじめとする古典的知識社会学の伝統への敬意を保ちつつ、エミール・デュルケム、マックス・ヴェーバー、ミシェル・フーコー、ピエール・ブルデュー、さらには文化人類学者クリフォード・ギアーツらの知見を統合した、新たな理論的フレームワークがある。著者は、知識が特定の社会グループやジェンダー、国家、機関に位置づけられており(situated knowledge)、特権的なエリートに独占されるものではないことを強調する。

近代初期における知識の変容をたどるうえで、本書は知識が生成・流通する「場所」と「機関」の分析に大きな紙幅を割いている。

伝統的な「古い機関」の代表格であった中世以来の大学は、本来、アリストテレスやトマス・アクィナスといった既存の権威の解釈と知識の伝達を主たる任務としており、制度的慣性ゆえに新たな思想の開拓には消極的な側面を有していた。これに対し、ルネサンス期から啓蒙時代にかけて、大学の枠外に数多くの新しい機関が誕生する。イタリアで隆盛を極めた私的な「アカデミー」や、ロンドン王立協会(1660年)、パリの王立科学アカデミー(1666年)に代表される科学協会、さらにはサロンやカフェといった非公式な空間が、革新的な思想や自由な討論の場として機能した。特に17世紀以降のコーヒーハウスは、新聞や雑誌を読みながら庶民や知識人が議論を交わす「公共圏(public sphere)」の形成に決定的な役割を果たした。

また、地理的視点においてバークは、アムステルダム、ロンドン、パリといった大都市を、世界各地からの断片的な情報を集積・検証し、地図や統計、地理書へと加工・再生産する「計算の中心地(Centres of Calculation)」として捉える。日本の出島やスウェーデンのウプサラ、さらには新世界の植民地といった「周縁」から輸入された膨大な情報が、これら都市の中心地で体系的知識へと昇華されたのである。

一方で、知の拡大は国家や教会による管理・統制機構の強化をもたらした。帝国支配や徴税、世論の制御のために行政機関は人口調査や地図作製、統計を推し進め、情報は「統治の道具」へと変貌を遂げた。これに伴い、異端審問や出版検閲といった知の封じ込め策もまた強化されていくことになった。

さらにここに、知識の商品化(commercialization of knowledge)が加わる。活版印刷技術の普及は、テキストの量産と標準化を可能にしただけでなく、知識を商品として売買する「印刷資本主義」を本格的に開花させた。

18世紀に向けて、「知識を売る行為はソフィスト的悪徳である」という中世以来の汚名を脱し、知識の売買は巨大なビジネスへと変貌した。イギリスにおける著作権法(アン女王法)の制定に象徴されるように、知識は個人の財産として法的に保護されるようになり、独占的特権から近代的な知的財産権へのシフトが生じた。これにより、かつてパトロンの庇護に依存していた執筆者は、原稿料や印税によって生計を立てるプロの著述家や売文作家へと移行する基盤を得た。

出版業者や書店主たちは、利益を追求する起業家として知識の流通に深く参画した。彼らは『アトラス(地図帳)』や歴史辞典、新刊カタログ、さらには『ジュルナル・デ・サヴァン』(Journal des sçavans)や『哲学紀要』といった学術雑誌を相次いで刊行し、市場の需要を掘り起こした。特にチェンバーズの『サイクロペディア』(Cyclopaedia)やブリタニカ、そしてディドロの『百科全書』などの大著は、予約出版制や共同出資・株式形式を採用した一大商業プロジェクトであり、膨大な資金と執筆チームの組織化を必要とする事業であった。

ここで著者は、西洋の動きに対して比較社会史的な視座を示す。バークは東アジア(特に中国の明・清朝)における壮大な百科事典(『永楽大典』『古今図書集成』『四庫全書』)の編纂事業を、西洋と対比させる。中国における知の集積と出版は、主に皇帝の庇護と官僚制秩序(科挙試験のための知識体系化)に奉仕する行政的・強制的性格を帯びていた。これに対し、西洋近代初期の知の集積は、市場の自由な競争と商業的動機に強力に駆動された「印刷資本主義」の秩序であったとバークは結論づける。

知識の絶対量が増大する「情報の爆発」は、人間が知をいかに分類し、利用するかという受容・認知の側面にも根本的な変革を迫った。

中世からルネサンス期にかけての知の分類は、アリストテレス的・キリスト教的な階層構造(「知識の樹」、自由学芸と機械技芸の区別等)に基づいていた。しかし、情報の激増に伴い、従来の有機的な分類体系は解体へと向かった。百科事典や辞書、図書館の目録において、従来の主題別編成に代わって「アルファベット順(ABC順)」が主流の配列方式として定着していく。バークはこのアルファベット順の採用を、単なる効率化・時間の節約にとどまらず、旧来の階層秩序から民主的・平等主義的な世界観への転換を示す「形式の内容」として解釈する。

これに対応して、人々の読書様式も変化した。18世紀にかけて、一つのテキストを反復して深く読み込む「精読(intensive reading)」から、目的の情報を得るために多数の書籍や参考図書を「拾い読み」「調べ読み」する「多読(extensive reading)」への移行が進んだ。読者は百科事典や目録、索引を使いこなす現代的な「情報検索者」としての性格を帯び始めたのである。

さらに、印刷物によって対立する多様な意見や嘘、誤報が白日のもとにさらされた結果、近代初期のヨーロッパでピュロン主義(絶対的懐疑主義)や実践的懐疑主義が全欧的に蔓延した。歴史的言説やニュースへの不信に対処するため、著者たちは自らの主張の根拠を示す「脚注(footnote)」の習慣を確立し、さらには観察や実験に基づく「経験主義」や統計的手法を発達させていった。懐疑主義と知の危機こそが、翻って近代的な客観性や学術的検証手続きを生み出す原動力となったのである。

本書は、豊かな具体的事例と多角的な比較分析を通じて、知識が不変の真理ではなく、社会的・経済的・政治的文脈のなかで絶えず交渉・構築される「動的なプロセス」であることを提示してみせた。

本書の最大の功績は、知識の発展を単なる「偉大な思想家による進歩の物語」として描く視点を排し、印刷業者、翻訳家、司書、代書人、商人、さらには読者といった無数の人々の社会的相互作用の中に知の歴史を再位置づけした点にある。伝統を守ろうとする保守的機関と、新たな市場を開拓しようとする改革者との葛藤と協同のプロセスこそが、知の構造を形作ってきたのである。

本書が描く近代初期ヨーロッパの相貌、すなわち、膨大な情報の氾濫とそれに対する管理の試み、知の商業化と著作権をめぐる相克、専門化と断片化への懸念、そして情報過多が生む懐疑心は、驚くほど現代のデジタル・情報社会の課題と重なり合っている。我々が直面している知的状況のルーツが、すでに数百年前の活版印刷の時代にあるという歴史的な遠近感を、本書は与えてくれる。

 

ポール・キンステッド著、和田佐規子訳「チーズと文明」(築地書館)

チーズと文明

日本の食文化からすると、チーズは嗜好品に感じる。

しかし、次のように考えてみると、見え方が違ってくるはずである。

豆腐が嗜好品とされる食文化があるとすれば、日本の食文化において豆腐が占める地位に、その食文化ではチーズがあるのだ、と。

ヴァーモント大学の乳製品化学者ポール・キンステッドによる本書は、一見すると嗜好品に過ぎないチーズという食品を、巨視的な歴史解釈の軸へと昇華させた歴史書である。単なる食の回顧録や銘柄図鑑ではなく、化学・微生物学・考古学・社会史の知見を重層的に融合させ、古代南西アジアの農耕革命から、中世修道院における技術体系化、近代産業革命での工場生産化、そして現代の欧米間における貿易・規制摩擦に至るまで、9000年にわたって育まれてきたチーズの文化が、本書にまとめられている。

そもそもチーズとは、単なる偶然の産物ではなく、人類の生物学的限界を突破するための必然的な技術革新であったと著者は主張する。新石器時代初頭(紀元前7000年〜6500年頃)、南西アジアの肥沃な三日月地帯において動物の牧畜と搾乳が始まったが、当時の成人は、離乳後に乳糖(ラクトース)を分解するラクターゼ酵素を失う「ラクトース不耐症(乳糖不耐症)」の状態にほぼ例外なくなっていた。液体状の生乳をそのまま摂取することは、激しい腹痛や下痢を引き起こし、深刻な健康被害をもたらしかねないものであった。

この生命の壁を打ち破ったのが、乳の加工技術であった。集められた生乳は、自然界の乳酸菌によって急速に酸性化・発酵し、カード(凝乳)とホエイ(乳漿)に分離する。乳糖の大部分はホエイとともに除去されるか、乳酸へと変化するため、固形化したカードは、乳糖不耐症の成人であっても安全に栄養を摂取できる画期的な保存食となった。著者は、遊牧民が胃袋の水筒に入れた乳が固まったという俗説に対し、成人ラクターゼ持続性が獲得される千年以上も前からチーズ製造が定着していた事実を挙げ、科学的エビデンスに基づいて歴史の誤解を鮮やかに正している。さらに、土器の発熱・保温機能を活かした加熱凝固(リコッタタイプの誕生)や、幼若反芻動物の胃から得られるレンネット(凝乳酵素)の発見は、チーズの保存性と風味を飛躍的に高め、農耕民の定住化と人口増加を力強く支える基盤となったのである。

新石器時代の土着的な知恵として始まったチーズ製造は、文明の開花とともに、都市社会の経済・宗教構造に組み込まれていく。メソポタミアのシュメール文明では、神話の中でウルクの神々や王(ドゥムジ)に捧げられる重要物資としてチーズが記述され、「山のように積み上げられた小さなチーズ」や「棒に刺された大きなチーズ」といった量を示す表現が登場する。

古代ローマ時代に入ると、カトーやウァロ、コルメラといった農学者たちによって、チーズ作りは科学的・体系的な「管理技術」へと進化を遂げた。塩水漬けによる保存法や圧搾技術、温度・湿度の厳密なコントロールが記述され、都市部の莫大な需要に応えるための大型チーズの生産や長距離輸送が可能となった。

ローマ帝国崩壊後の混乱期において、この知的な守り手となったのが、中世ヨーロッパの修道院(ベネディクト会やシトー会)と荘園システムである。「祈り、かつ働け」という崇高な労働倫理の下、修道僧たちは自給自足の領域内で製法を磨き上げ、周辺農民への技術の波及や、地代(十分の一税)としてのチーズの徴収を通じて、地域特有のチーズ文化を形成した。ザンクト・ガレンの修道院やムリの修道院などの記録に見られるように、アルプス山脈の過酷な気候を利用した季節移動式酪農(アルプ・トランスヒューマンス)は、グリュイエールやエメンタール、アッペンツェラーといった今日世界的に知られる大型ハードチーズの醸成へとつながっていったのである。

時は流れて19世紀、産業革命と市場原理の台頭が、チーズの世界に不可逆的な地殻変動をもたらす。イングランドのジョゼフ・ハーディングによるチェダーチーズ製造工程の科学的な標準化(レシピ化)は、経験則に頼っていた職人技を「再現可能な工業技術」へと脱皮させた。そして1851年、アメリカ・ニューヨーク州でジェシー・ウィリアムズが世界初のチーズ工場を開設したことで、伝統的な「ファームステッド(農場手作り)」から「集約的工場生産」への移行が爆発的に加速する。

南北戦争期における農場労働力の不足は、家庭内でチーズ作りの重責を担ってきた女性(乳搾り女/ミルクメイド)たちを、週7日の過酷な手作業から解放する一方で、何世代も受け継がれてきた手作りの技や多様な地域性を市場から駆逐する結果をもたらした。アメリカで推進された「規模の経済」は、均質で安価なチェダーチーズを大量に生産して世界市場を席巻したものの、ラードを加えて水増しした「フィルドチーズ」の流通といった品質の悪化を招き、一時的に信用を失墜させるなど、市場至上主義の弊害も露呈させた。

こうした歴史の延長線上に、著者は、現代の欧米間における深刻な食文化上の対立の根源を求める。ヨーロッパ(特にEU圏)は、長い歴史の中で育まれた風土(テロワール)と伝統製法を守るため、原産地名称保護(PDO)制度を制定し、「パルミジャーノ・レッジャーノ」や「ロックフォール」などの名称を厳格に保護している。これに対し、移民国家として大規模工場生産と衛生管理の徹底によって市場を拡大してきたアメリカは、これらの名称を「一般名詞」とみなして猛反発し、WTO(世界貿易機関)を巻き込む国際的な紛争へと発展している。

さらに、生乳(無殺菌乳)を使用した伝統チーズに対するFDA(アメリカ食品医薬品局)の厳しい衛生規制(60日熟成ルール等)と、生きた有用微生物群が醸し出す風味を尊重するヨーロッパの食の理念との衝突は、単なる貿易上の規律の問題を越えて、「食の安全とは何か」「文化遺産をどう守るか」という哲学的な相違を示している。しかし著者は、20世紀末以降のアメリカにおいて、「アメリカチーズ協会(ACS)」を中心とする草の根の職人(アルチザン)たちが手作りの伝統チーズを再発見し、復活させている現象にも光を当て、未来への希望を提示している。

本書は、たった一塊の発酵乳の背後に、人類の生存戦略、宗教的儀礼、帝国主義、技術革新、そして現代の政治経済学が重厚に絡み合っていることを、鮮やかに立証した一冊である。

 

キャス・サンスティーン著、田沢恭子訳,齊藤誠解説「最悪のシナリオ: 巨大リスクにどこまで備えるのか【新装版】 」(みすず書房)

最悪のシナリオ――巨大リスクにどこまで備えるのか【新装版】

本書についての書評は2年前に書き記した。

しかし、2026年10月16日金曜日、日本中を突如として駆け巡った「マグニチュード9.9の巨大地震」という緊急地震速報の警報音を耳にして、本書を思い浮かべた。そのため、もう一度本書の書評を書き記す。何しろ、あの東日本大震災でさえマグニチュード9.0であり、マグニチュードが0.9大きいということは、エネルギーにして東日本大震災の約22倍にあたる巨大地震の警報だったのだ。結果として、カムチャツカ半島で発生した地震と東京で発生した地震のタイミングが重なったことによる誤報だったことが判明するが、たとえ誤報であったとしても、あるいは現実の超巨大地震の予兆であったとしても、スマートフォンから鳴り響いたあの異様なアラートは、いまに生きる我々が普段は意識の奥底に封印している極限の破滅——すなわち本書のタイトルである「最悪のシナリオ(Worst-case scenarios)」——を瞬時に可視化させたことは紛れもない事実である。

このような低確率でありながら発生すれば社会を壊滅させる超巨大リスクに対して、個人や政府はいかに向き合い、いかに意思決定を下すべきなのか。人類にとって最も重い問いに対して、行動経済学と公法学の世界的権威であるキャス・サンスティーンが明快かつ緻密な理論的枠組みを提示したのが本書である。東日本大震災の約22倍という想像を絶する脅威を目の当たりにした今こそ、本書の説く理性の処方箋を熟読する意義はきわめて高い。

人間が巨大な恐怖に対面したとき、脳内では素早い感情的・直感的な反応を司る「システムⅠ」と、低速ながら熟考・分析を担う「システムⅡ」の間で強い葛藤が生じる。大地震の揺れや建物の崩壊、テロの惨状といった鮮明かつ衝撃的なイメージは、システムⅠを直接刺激し、「想起容易性バイアス(Availability bias)」を強力に引き起こす。

想起容易性が高まると、人間はリスクの客観的な発生確率がどれほど低くともそれを考慮できなくなり、あたかもその大惨事が確実に起きるかのように錯覚して極端な過剰反応に陥る。サンスティーンはこれを「確率無視(Probability neglect)」と呼ぶ。9・11テロ直後にアメリカのディック・チェイニー副大統領が表明したとされる「1パーセントの確率でも破滅的な脅威が存在するなら、100パーセント確実に起きるものとして対処しなければならない」という「1パーセント・ドクトリン」は、まさに確率無視に基づく政治的過剰反応の典型例である。

一方で、人間の認知には恐ろしい非対称性が存在する。気候変動や慢性的な環境破壊のように、被害が徐々に進行し鮮明な映像として認知しにくい脅威に対しては、確率の不確実性を口実に「完全な無視」を決め込んでしまうのである。「過剰反応」と「完全な無視」というこの両極端な行動傾向こそが、人間が巨大リスクに対処する際に陥る最大の陥穽であると本書は喝破する。

環境問題や公衆衛生の分野では、「重大な損害の恐れがある場合、十分な科学的確実性がなくとも規制や対策を先送りすべきではない」という「予防原則(Precautionary Principle)」が広く支持されてきた。しかし、サンスティーンは無条件かつ強力な予防原則の適用に対して厳しい批判を加える。

なぜなら、予防原則をあらゆるリスクに無差別に適用しようとすると、社会は意思決定の「麻痺(Paralysis)」状態に陥るからである。特定のリスク(たとえば巨大地震やテロ)をゼロにしようとして極端な予防措置や過大な規制を講じれば、莫大な経済的費用が生じ、失業や貧困の増大、あるいは個人の自由やプライバシーの剥奪といった新たな壊滅的リスクを自ら生み出してしまう。これを著者は「リスク・リスク・トレードオフ(Risk-Risk Tradeoff)」と呼ぶ。

テロの芽を摘むための先制攻撃がさらなる泥沼の戦争や大量の犠牲者を招いたように、単一のリスク排除だけに執着した「過剰防衛」は、別の破滅を呼び寄せる。M9.9の警告に直面した際にも、恐怖に駆られて社会のインフラや経済活動を全面的に停止させれば、地震そのものが起きる前に社会構造自体が崩壊しかねない。

過剰反応による自滅も、楽観バイアスによる放置も避けるために、サンスティーンが構築したのが、精緻化された「壊滅的損害の予防原則(Catastrophic Harm Precautionary Principle)」である。

著者はまず、最悪の結果のみに着目してその排除を最優先する意思決定論上の「マキシミン原則(最悪の結末が最もましな選択肢を選ぶ原則)」を、現実の社会政策にそのまま用いることの愚を指摘する。そのうえで、以下の段階的かつ合理的な評価ステップを提唱する。

  1. 期待値分析とセーフティー・マージン
    発生確率と損害規模を掛け合わせた「期待値」を算定し、パニックや集団行動の乱れによって二次的被害が拡大する「リスクの社会的増幅」を考慮して、適切な「セーフティー・マージン(安全域)」を確保する。
  2. 真の不確実性下での限定的マキシミン
    発生確率すら一切特定できない「真の不確実性」に直面しており、かつ最悪のシナリオを排除するための対策費用が極端に巨大でない場合に限り、最悪の事態を防ぐ選択肢を最優先する。
  3. 不可逆性(Irreversibility)とオプション価値
    種の絶滅や大規模な環境破壊、あるいは都市の全壊のように「一度起きたら取り返しのつかない損害」に対しては、将来にわたって柔軟な対応余地を保持するために、事前の予防的投資(「オプション価値」の購入)を積極的に認める。

このフレームワークによれば、事前に対策を講じること自体のコストと、放置した場合に被る不可逆的な壊滅的損害の双方を天秤にかけ、社会全体として最も合理的な「保険」を買い求めることが可能となる。

 

本書は費用便益分析(Cost-Benefit Analysis)の重要性を説くが、サンスティーンの真骨頂は、それを単なる冷徹な金銭計算に終わらせない点にある。著者が最重視するのは、金銭的数値そのものではなく、人々の実質的な「幸福(Utility / Well-being)」の増進である。

また、気候変動や超巨大災害のように影響が数十年・数百年先に及ぶ問題において、従来の経済学が用いる「割引率(Discount Rate)」を無批判に適用し、将来世代の生命や健康の価値を現在価値に換算して不当に低く見積もる姿勢を強く戒める。著者が掲げる「世代間中立原則(Principle of Intergenerational Neutrality)」は、「どの世代の人も、他の世代の人より優遇されるべきではない」という倫理的要請であり、未来の子供たちが破滅的惨事に晒されないための土台となっている。

 

2026年10月16日のM9.9緊急地震速報が私たちに突きつけたのは、単なる自然災害の恐怖にとどまらない。「私たちは予期せぬ破滅とどう向き合うのか」という、社会の知性と成熟度を試す究極の問いである。速報の衝撃に混乱して一時的なヒステリーに陥り、過度な規制や社会の停止を選んでしまえば、自らの手で二次的な惨事を招くことになる。かといって、「誤報だった」「大したことは起きなかった」と安堵し、喉元過ぎれば熱さを忘れるかのように次の巨大リスクを「完全な無視」へと追いやれば、真の崩壊が訪れたときに逃げ場を失う。

サンスティーンが本書の結びで提示した最も深い洞察は、巨大リスクのマネジメントにおいて必要なのは、一過性の激情でも専門家への盲従でもなく、「細く、しかし、長く考え続ける(sustained attention)」ことであるという教えである。

人間は誰しも認知の偏りや感情の罠から逃れられない脆弱な存在である。だからこそ、自らの認知の弱さを自覚した上で、直感(システムⅠ)を冷静な分析(システムⅡ)によって補正し、リスクと対策のトレードオフを冷徹に見極め続けなければならない。未曽有の不確実性が漂う現代において、キャス・サンスティーンの『最悪のシナリオ』は、感情の波に呑まれがちな私たちが危機の中で見失ってはならない「理性の羅針盤」であり続ける。

佐藤けんいち著「世界史から読み解く「コロナ後」の現代」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

世界史から読み解く「コロナ後」の現代

2020年初頭から世界を襲った新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の衝撃から数年が経過し、2026年の現在、われわれを取り巻く国際情勢は、かつての「世界が一体化する」という無邪気なグローバリゼーションの幻想から完全に決別している。サプライチェーンの地域ブロック化、主要国間の経済安全保障をめぐる対立、国家主権の露骨な主張、そして気候変動に起因する食料・エネルギー不安など、まさにVUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)が常態化した時代が到来している。

こうした2020年代中盤の混沌を、われわれはあたかも「未曾有の危機」であるかのように、立ちすくみがちである。しかし、2020年末に刊行された本書は、今まさにわれわれが直面している構造転換の正体を、400年前の「17世紀の世界史」という巨大な鏡に映し出すことで見事に予見していた。2026年の現在から本書を読み返すとき、単なる「コロナ禍の予測本」を超えた、脱グローバリゼーション時代を生き抜くための極めて実用的な「歴史の羅針盤」としての価値が浮き彫りになる。

本書は、16世紀から現代に至る人類史を「3つのグローバリゼーション」という明確なフレームワークで捉え直している。著者は、歴史上、地球規模のネットワーク化が以下の3つの波として生じたと整理する。

  • 第1次グローバリゼーション(1571年〜17世紀半ば):スペインがマニラを建設し、新大陸や日本の銀(シルバー)が太平洋・大西洋を経由して、巨大な「ブラックホール」である中国(明朝)へ吸い上げられた時代。
  • 第2次グローバリゼーション(1850年代〜1914年):イギリス(パクス・ブリタニカ)を中心とし、蒸気船や電信、産業革命によって世界が緊密に結ばれた時代。
  • 第3次グローバリゼーション(1980年代〜2020年):米ソ冷戦終結と新自由主義、IT・インターネットの発達によって、ヒト・モノ・カネ・情報が地球規模で高速循環した時代。

著者は、2020年のパンデミックを「第3次グローバリゼーションの強制終了スイッチ」であったと断定する。効率性と最適化を極限まで追求したグローバルサプライチェーンは、ひとたび感染症というシステム障害が発生すると、マスクや医薬品すら自国で調達できないという致命的な脆弱性を露呈させた。

 

そして本書が深く掘り下げるのが、第1次グローバリゼーションが崩壊した「17世紀の危機」である。17世紀半ば、地球規模の寒冷化(小氷期)による不作、ペストの大流行、三十年戦争や明清交代といった大戦乱、さらには世界的な「銀不足」が重なり、地球規模の貿易網は急速に縮小・分断された。当時の人々もまた、世界秩序が根底から崩壊するカオスを体験したのである。

本書において日本人に強い示唆を与えるのが、17世紀の江戸幕府による「鎖国」政策の再評価である。従来の歴史教育では、「鎖国」は日本を世界から遅れさせた負の政策として語られがちであった。しかし著者は、当時の「鎖国」を、「人の移動は厳重に制限・管理しつつも、モノ・カネ・情報は『4つの口』(長崎・対馬・琉球・松前)を通じて巧みに動かし続けたリスク管理システム」として捉え直す。

17世紀のユーラシア大陸が戦乱と感染症と寒冷化で大混乱に陥る中、日本は「ヒトの野放図な流入」を遮断して自国の安全と衛生・食料基盤を防衛しつつ、必要な情報と貿易は維持した。その結果、製塩、製紙、綿花栽培などの国産化を進め、内需主導の持続可能な経済社会を作り上げたのである。

2026年現在の世界を見渡せば、各国・各地域でのサプライチェーンの内製化や、デジタル境界の保護、安易な移民拡大の見直しなど、まさに17世紀の江戸幕府が試みたような「管理された開国・自立的なローカル化」が世界中で同時多発的に進行している。著者の指摘どおり、17世紀の日本の危機対応は、21世紀の脱グローバル化時代における「賢明な自己防衛のモデル」として極めて示唆に富んでいる。

 

本書が2026年のわれわれに突きつける最も冷徹なリアリズムは、「グローバリゼーションが強制終了した後の混迷期は、歴史上およそ40年続く」という歴史的法則である。

第1次グローバリゼーションが1640年代に途絶えてから、ウェストファリア条約(1648年)を経て、1680年代に各国の主権国家体制や東アジアの秩序が安定するまで約40年を要した。また、第2次グローバリゼーションが1914年の第1次世界大戦と1918年のスペイン風邪で途絶した後、第2次世界大戦の惨禍を経て1950年代に戦後秩序が定着するまでにも、やはり約40年の歳月を要している。

2020年に第3次グローバリゼーションが「強制終了」したとすれば、われわれがいま生きている2020年代は、40年にわたる大転換期のほんの序章(6年目)に過ぎない。V字回復や「コロナ前への元通り」を期待することがいかに浅はかであるかを、本書の歴史的エビデンスは容赦なく暴き出す。2026年の現在においてもなお収まらない地政学リスクや経済的混迷は、新秩序が形成されるまでの避けられない暗夜の道程なのだ。

 

著者は終章において、この激動期を生き抜くビジネスパーソンに向けて6つの教訓を提示している。

 

  1. 激動期に必要なのはセルフコントロールだ!
    17世紀のヨーロッパでネオ・ストア主義(ストア派哲学の復活)が流行し、自己規律が求められたように、不確実な時代には個人の強い精神的自律(マインドフルネスや自己規律)が不可欠となる。
  2. ヒトの移動は制限されたが、モノ・カネ・情報は動いていた「鎖国」で危機を乗り切った
    完全閉鎖ではなく、安全と自国基盤を守りながら戦略的に外部と接続するハイブリッドな危機管理が要求される。
  3. 「グローバリゼーション」が終わっても混乱の終息に40年かかる
    短期的な景気循環ではなく、数十年単位の「構造転換」として時代の趨勢を腹に据える必要がある。
  4. 「ローカル」を重視せよ! ネットの向こうにも「ローカル」がある
    世界共通の普遍的解法など存在しない。ネットで世界がつながるからこそ、足元の「地域(ローカル)」や特定の文脈に深く根を張ることが強みとなる。
  5. 源泉としての日本文化を深掘りせよ!
    世界がブロック化し独自性が問われる中、自国の歴史や文化(『鬼滅の刃』のような独自の物語性や伝統)の源泉を深く理解している者こそが、国際舞台で真の強みを発揮する。
  6. 情報に敏感になれ! 危機意識と先取精神が必要だ
    オランダ風説書などを通じて世界の情報を貪欲に収集し続けた江戸幕府のように、情勢変化に対する高い感度を持つことが生存条件となる。

 

本書は単なるアカデミックな歴史書にとどまらない。その実践的な視点は、著者がタイや東南アジアでのビジネス経験を持つ実務家出身であることに由来する。アダム・スミス、グロティウス、スピノザなどの思想的背景から、ヴェルメールの絵画に見る当時の物価・生活様式、オランダ東インド会社の会計システムまでを縦横無尽に横断する語り口は、多忙なビジネスパーソンにとっても極めて理解しやすい。

あえて課題を挙げるならば、本書が2020年のパンデミック直後に執筆されたため、生成AIの急激な進化やそれに伴う「情報の超高速伝播・ディープフェイクリスク」といった、2020年代半ば特有のデジタル技術の影の部分については、具体論として深掘りされていない点である。しかし、「技術の進歩が人間の欲望や格差を増幅し、システム全体の脆さを高める」という本書の根本的な洞察(17世紀の「大砲と帆船」の組み合わせが西欧の優位を生むと同時に地球規模の大乱をもたらした構造)は、現代のAI社会にもそのまま当てはまると言えよう。

2026年という時代は、もはや「コロナ前の世界に戻る」という甘い期待を誰も抱かなくなった時代である。世界は分断され、気候は不安定化し、昨日までの常識が明日には通用しなくなる。

そうした時代において、本書は、われわれに「歴史を知る」ことの本当の意味を教えてくれる。歴史とは過去の暗記ではなく、未来の暗闇を照らす「松明(たいまつ)」であり、VUCA時代を生き抜くための「実学」である。400年前の「17世紀の危機」を、知恵と自己規律、そして巧みなリスク管理によって乗り越えた先人たちの営みは、2026年を生きるわれわれに静かな勇気と明確な指針を与えてくれる。

世界史から読み解く「コロナ後」の現代

世界史から読み解く「コロナ後」の現代

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