いささめに読書記録をひとしずく

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

山本孝文著「文房具の考古学:東アジアの文字文化史」(吉川弘文館)

文房具の考古学 -東アジアの文字文化史- 歴史文化ライブラリー

文房具店は多くの街に見られる店舗である。文房具専門店でなくともスーパーマーケットやコンビニエンスストアで文房具を買うことはできる。

では、歴史を遡るとどうなるか?

古今東西、文字が誕生したときというのは、周囲に手に入る素材を用いて文字を書き記した。多くの文明では石をはじめとする鉱物や、骨などの硬い素材に刻み込むことで文字とした。古代メソポタミアでは粘土に葦で押しつけるように文字を書き記し、古代エジプトではパピルスに文字を書き記した。

では、東アジアでは?

東アジアは時代とともに以下の四つのアイテムが文房具の基本となった。

筆。

墨。

硯。

紙。

いわゆる文房四宝である。東アジアにおいて文字を書き記すには最低でも上記四点が必要であり、その他のアイテムはあれば便利であるが必要不可欠というものではない。

本書は、この文房四宝をはじめとする文房具がどのように誕生し、時代によってどのように変化してきたかをまとめた一冊である。

今に生きる我々は、文字を書くのではなくキーボートやスマートフォンの画面へのタッチで文字を入力しているが、それでも、書き記す文字は文房具の制約の上で発展し改良を重ねられてきた文字であり、日本語で言うと左から右に向かう横書きが増えたにしても、その文字は縦書きで行末までいくと左に移るという前提で成立している文字である。ちなみに、中国大陸では横書きが通例となり、朝鮮半島ではハングル表記が一般化しているが、それでも毛筆を用いた縦書きを前提とした文字であり続けている。

一見すると書きづらいと感じることもあるし、縦書きなのはともかくどうして一行書いたら左に進むのかを考えると非合理に感じることもあるが、これも歴史に理由を求めると納得いく解が出てくる。

文字は、文字そのものだけで成立してるのではない。文字を書くアイテムも伴って成立し歴史を紡いでいるのである。

 

仁藤敦史著「加耶/任那:古代朝鮮に倭の拠点はあったか」(中公新書)

加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか (中公新書)

加耶、あるいは任那、日本の歴史を学ぶと必ず出てくる地名であるが、いまいちピンと来ない人も多いであろう。実際、新羅百済高句麗といった朝鮮半島の国々と違い、そもそも国家としての歴史を有していない。

余程詳しい教科書でない限り、加耶任那のことが詳しく記されることはない。せいぜい、大伴金村の失脚につながる割譲事件に出てくる程度である。しかもそれは日本史の教科書であり、世界史の教科書で扱われることはまず無い。

しかし、歴史の教科書での扱われ方が乏しくとも、その地に人が住み、百済でも新羅でもない地域として存在していたのは間違いないのだ。

問題は、加耶or任那がどのような地域であったのか?

かつては日本の一部、あるいは日本の植民地と見做されていた。昭和生まれの人であれば「任那日本府」という単語を耳にしたこともあるであろう。しかし、現在はそのような解釈が一般的とはなっていない。大和朝廷につながる何かしらの権力が存在していた可能性は高いが、それが日本の一部であったとは言い切れないのが現状である。

本書が解き明かすのは、数少ない文献史料、そして、発掘結果から現時点で明らかとなっている、古代の朝鮮半島南部と日本との関係である。これは歴史学の宿命であるが、現時点で接することのできる史料しか学説の論拠とすることができず、論文執筆は常に制約が伴う。一度の発掘で論文が全否定されることなど珍しくもないのが歴史学の宿命であるが、そのリスクを踏まえて記すと、加耶/任那は、かつて唱えられていた任那日本府ほどの明瞭な日本の植民地というわけではないにせよ、何らかの形で日本との接点は強かった地域となる。そして、時代とともに新羅百済に飲み込まれていき、朝鮮半島から姿を消し、今となっては痕跡を辿るしかない地域である。

 

倉田喜弘著「明治大正の民衆娯楽」(岩波新書 黄版 114)

明治大正の民衆娯楽 (岩波新書 黄版 114)

最近はテレビを観る人が少ないという言葉が広まっているが、そもそも、テレビもラジオも無い時代は100年前まで当たり前だった。関東大震災の後にラジオが登場したが、ラジオ番組の質も量も現在と比べかなり少なかった。そもそも戦後になるまでNHKだけがラジオ放送局であった。

本書は、今から100年前の人達がどのような余暇を過ごしどのように娯楽を楽しんだかをまとめた書籍である。

テレビもネット配信も無い時代ではあるが、芸人もいたし役者もいた。劇場や寄席はこれ以上ない楽しみであった。現在からすると古く感じてしまう義太夫や都々逸もその当時は時代の最先端の娯楽であり、最先端であるがゆえに白眼視されることもあった。このあたりは今も変わらない。

それまでは浮世絵や、明治時代になって広まりだしたブロマイドでしか目にできなかった芸能人であるが、最新技術である映画、その時代の言い方では活動写真によって、国内外のスターを銀幕で目にすることができるようになった。ただし、この時代の映画は無声映画であり、銀幕のスターは口を動かしているが喋らないでいる。

その一方で、声を聞くことの娯楽性は高く、漫談や落語は多くの人が寄席舞台に詰めかけて耳を傾けるようになり、多くの人の涙と笑いを誘った。また、この時代ならではと言うべきか、戦争での武勇をテーマにすることも多く、それらは寄席に詰めかけた人を意気軒昂とさせた。

現在はマスメディアからスマートメディアへと移り変わる過程にあり、娯楽の様相も同様に移り変わりつつある。しかし、娯楽と庶民との関係性については現在も過去も大きな違いは無いのだと痛感させられる。

ところで、奥付によると、本書の刊行日は昭和55(1980)年3月21日となっている。
本書刊行時は誰も想像しなかったであろう。その4ヶ月後、漫才ブームが始まることを。そして、この漫才ブームもまた、この国の娯楽の様相を大きく変化させることとなるポイントの一つとなるのである。

 

長部三郎著「伝わる英語表現法」(岩波新書)

伝わる英語表現法 (岩波新書)

本書について何かを記す前に告白しなければならないことがある。

私はまともに英語を使えない。𝕏(旧Twitter)等で英語の投稿をすることはあるが、ほとんどは機械翻訳の結果である。職場でもたまに英語を使わねばならないことがあるが、そのときでも英語に堪能な同僚のサポートしてもらうのがほとんどである。ちなみに、TOEICの点数も御世辞にも高いとは言えない

そのような私が英語表現について記した本書について記すのは不遜に過ぎるが、それでも本書を読み、その上で本記事を書き記すことはできる。厳密に言うと、英語に堪能な同僚から聞いた言葉をそのまま書き記すことはできる。

少し前、学校の英語教育は実際の英語においてマイナスである、英語が身につかない、受験英語は役に立たないという言質が広まっていた。本書の主張もその流れに沿っている。同僚が言うのも、たしかに受験英語と実用英語とは違うというのはポイントの一つである。

ただ、受験英語が日本人の英語の基礎を身につける根幹になっているのも事実なのだ。英語の文章を日本語に訳すときに用いるテクニックは、まずは受験英語、そのあとで実用英語という流れにすると、日常生活で英語を使うのに必要な英語力が身につくというのである。

その上で、同僚から言われた言葉は以下の通りである。「この本に耐えられるほどお前の英語力は高くない。この本は上級者向けの本だ。ちなみに、俺にとっては目から鱗の連続だった」

悔しいがその通りである。

もし、自らの英語力に自信を持つ人がいるならば、本書にチャレンジしてみてはいかがであろうか。

 

 

山口博著「日本人の給与明細:古典で読み解く物価事情」(角川ソフィア文庫)

日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情 (角川ソフィア文庫)

江戸時代の越後屋の勤務状況が、

  • 12歳から22歳になるまで無給
  • 休暇は年に2回
  • 10年間勤め上げると給与を貰えるようになるが1年ごとの契約更新があり終身雇用ではない
  • 30歳まで働けた者が10人に1人である

以上を踏まえると、「越後屋、お主も悪のよう」が別の意味になる。

上記は本書に掲載されているエピソードのうちの一つであるが、我が国の祖先の名誉のために記すと、江戸時代の越後屋のような極悪非道な労働条件しかなかったというわけではなく、現在と同等、ないしは、現在と比べるとむしろ羨ましいと感じる給与事情の人も数多くいた。

本書は日本人の給与事情の歴史をまとめた書籍である。当然ながら、明治時代に現在の日本円を制度として確立される前は日本円での給与などあるわけないし、それ以前に貨幣経済の確立される前は金銭でどれだけの給与があったのかなどわかりようがない。また、日本円での給与記録があったとしても物価は大きく違う。

本書はそれらの事情を踏まえて、当時の資料からどれだけの生活ができていたのかを調べ、それらを現在の貨幣価値に落とし込むことで当時の給与事情がわかるようになっている。

ただ、一点注意が存在する。本書は昭和63(1988)年に刊行された書籍であり、加筆修正した上で文庫版として刊行された一冊であるが、我が国はその間に失われた30年を体験してしまった。加筆修正での補完もあるとはいえ、基本的には失われた30年を迎える前の日本国の経済情勢を前提とした書籍である。

 

 

福間良明著「「勤労青年」の教養文化史」(岩波新書 新赤版 1832)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

昭和20(1945)年を期に、それまで信じていたことが一瞬にして崩壊した。

玉音放送を聞いた大人は自らを見つめ直した。

生まれたときから国が戦争をしていた子供は自らを作り始めた。

今をいかにして生きるかという現実と並行して、教養への需要が生まれた。

それは純然たる教養への欲求であると同時に、自らを作りあげる土台への希求でもあった。

そうした教養への需要に対して供給としての青年学校も誕生し、教養を高めることを前提とする雑誌も創刊され、多くの人が教養に触れることが可能となった。

ただ、それは時代とともに教養への需要から教育への需要に変化した。

現在は多くの人が高校に進学する。16歳から18歳は高校生であるというのが一般的な認識になっている。しかし、終戦直後からこのような情景が作り出されたのではない。中学まで義務教育となったが、中学卒業と同時に就職する若者も多かった。

その結果、高校に進学した者と中卒で就職した者との間で断絶が生まれた。中学入学当時は同じ教室で机を並べる仲間であったとしても、中学三年になると進学する者と就職する者とで断絶が生まれ、教育での明確な差別まで誕生した。

このときの断絶は就職後も同じであった。同じ職場に就職したにしても、中卒で就職したならば四半世紀ほど経ってようやく手にできる地位を、高卒での就職ならば就職後ただちに、あるいは就職から数年で手にできるようになっていた。

現行の教育制度の導入前にも似たようなことがあったが、尋常小学校卒業後にただちに就職した者と、中等学校をはじめとする学校に進学した者との間の断絶が存在したが、進学した者の割合そのものが小さく、断絶は問題になっていたがそこまで如実な断絶ではなかった。

それが戦後になると、高校進学が珍しくなくなり、過半数を数え、七割、八割、九割と高校進学率が上がるにつれて中卒就職の肩身は狭くなり、せめて高校を卒業しておけばと嘆息するようになった。

その嘆息を踏まえて定時制に自らの教育の場を求める者もいたが、職場によっては定時制を無事に卒業したとしても高卒と認定しない職場もあった。業務後の教育を快く思わない人もいる一方、定時制の教育の質もあまり高いものではなかった。いや、こちらは現在進行形でも続いている話でもあるから過去形で記すべき話ではないか。また、高校全入時代を迎えたことで定時制は働きながら通う場所ではなく他の高校に不合格であった若者が仕方なしに通う場所という見られかたもするようになり、退学者の割合も全日制と比較できない高い数字を数えるようになっている。

残酷な言い方になるが、現在はある程度の高等教育を受けることが前提となっている社会が成立している。書店を眺めても多くの人の教養への意欲を刺激する書籍が並んでいるのが目に映る。就業するにしても社員に対して相応の教育水準が身についていることを求めるようになっている。

その一方で、そこからこぼれ落ちた人も数多く誕生してしまっていることは目を向けていかなければならない。

その具体的な方法となると、一朝一夕で思いつくものではないが……

 

近藤正高著「タモリと戦後ニッポン」(講談社現代新書)

タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)

本書について何を書こうか、そう考えた私の思いをぶち破ったのは、Amazonに投稿されたこちらのレビューである。

www.amazon.co.jp

このレビューを読み終えた今となっては、もはやこれ以上何かを語っても負けであると悟り降伏するしかない。私にできるのはこのレビューを紹介することだけである。