いささめに読書記録をひとしずく

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

楠桂著「寿戦記【改訂版】」(大洋図書)

寿戦記 (女たちのリアル)

以前、楠桂氏が体験し続けた死産と流産の苦しみ――そう、単数形ではなく複数形で記さざるをえないほどの苦しみ――を描いた作品である「不育症戦記~生きた赤ちゃん抱けるまで~」(大洋図書)を紹介した。

rtokunagi.hateblo.jp

本書はもともと2001年に刊行された書籍であり、本年8月に電子化するにあたって増補改訂が行われた。そして、結果的に三部作の第一巻となった作品である。

本書の初版刊行時、作者は苦しみから救われた幸せを手にしていた。アシスタントとの金銭トラブルの渦中に苦しみ裁判沙汰の最中であった作者の元に男性は現れ、運命の人と感じて結婚し、妊娠し、第一子を出産した。それが次回作、次々回作に至る入り口になるとはこのとき誰も知らない……

作者もその男性も結婚を望み、周囲からの反発があった者の結婚までこぎ着ける。双子の姉は結婚して家を出ており、作者の母はただ一人残った娘である作者のもとに婿養子に入ってくれないかと考える。しかもその男性は5最歳下の一人っ子で事業をやっている家の跡取り息子。連載を抱える作者は、結婚に至るまで、さらには結婚式と結婚旅行、そうしたイベントを漫画連載と平行して過ごさねばならない。それでも作者はハードスケジュールともにイベントをこなし、人妻となる。

その後の婚姻生活で作者はついに妊娠を迎える。ただ、最初の妊娠はあまりにも悲しい結末であった。突然の流産。お腹の中の新たな命が突然いなくなる。それでも作者は強く乗り越えた、かのように作品でが描かれてある。事実はそうではない。苦しみの日々であったことは次回作で描かれている。二度目の妊娠でつわりに悩まされるも、一度目はつわりを味わうことすら無いままに流産を迎えたことから、つわりですら受け入れる。新たな命を生み出す。作者は自分が母になることを喜び、帝王切開で我が子を産み、生まれたばかりの我が子が病気となりこの手に抱けなくなったことを嘆きながらも作者の産んだ子は健康を取り戻し、無事に親子での生活を始める。そう、本作の段階では幸せの入り口の描写なのである。

しかし、電子化にあたって追加された後書きはその後に迎えた作者の現実を見せつける。

 

 

鈴木透著「食の実験場アメリカ:ファーストフード帝国のゆくえ」(中公新書)

食の実験場アメリカ ファーストフード帝国のゆくえ (中公新書)

戦中戦後の日本人にとって最も深刻な問題は食糧の確保であった。満員の列車に身動きできずに乗り、農村から物々交換で食料を分けてもらい、一杯の雑炊を求めて10km以上歩き、いつ来るか分からない配給を待ち望み、闇市で正体の分からないものを探していた。飢え死にすることも珍しくない時代であり、その日の食べ物をどうするか悩んでいたのが戦中戦後の状況である。

そのように飢餓の危険と隣り合わせだった時代に、日本人の目の前で豊かな食生活を送っていたのが米兵であった。戦場では大量の食料を前線に運び、進駐軍として日本に来た際には日本人が立ち入れない専用の場所でどんな食料品でも購入していた。日本人はその豊かな食糧事情を目の当たりにしていた。

やがてアメリカの食文化が憧れとなり、日本社会に浸透していった。これを嘆く人もいたが、それは最先端の食文化であり、長らく手に入れられなかった豊かな食文化が目の前に広がっていたため、飛びつかないわけがなかった。

しかし、アメリカの食文化が一面的なものかというと、本書にある通りそうではない。先住ネイティブ、黒人奴隷、移民の影響が織り交ざってできたものであり、複数の文化が混ざり合って生まれた食文化である。ポップコーンやフライドチキン、バーベキューといったアメリカ的な身近な食べ物もそうであり、飲み物に目を向ければ、独立の契機となった紅茶からコーヒーへの移行、そしてコーラの誕生と普及という歴史的経緯がある。

ただし、画一的な面もある。それは画一化することで広く普及しビジネスとして成功したためであり、もし普及が限定的であったりビジネスとしての成功が小さければ、アメリカの食文化は50州それぞれ、さらには州内の郡ごとに独自の文化を見せている。別の見方をすれば、独自に発展した食品のうち画一化に成功したものが産業となり、全米各地や世界中に広がったと言える。世界中に展開するマクドナルドも、もとはカリフォルニア州サンバーナーディノのローカルフードであった。

そしてアメリカは現在も多くの料理を生み出し続けている。日本の寿司がアメリカ料理に取り込まれていることを知る人も多いだろう。国外からビジネスチャンスを求めて渡米する人々が多く、彼らは故郷の料理とアメリカの食材や料理を融合させて新たな料理を次々と生み出している。それが今も進行中のアメリカの食文化である。

 

倉山満著「ウルトラマンの伝言:日本人の守るべき神話」(PHP新書)

ウルトラマンの伝言 日本人の守るべき神話 (PHP新書)

ウルトラマンの放送開始が昭和41(1966)年であるから、ウルトラマンは来年で還暦を迎える。それだけの長期間に亘って世代を超えて愛され続け、最新作が次々と登場し、世代を超えた共通言語としても通用するまでになったウルトラマン

倉山満氏は本書において、このウルトラマンシリーズを題材に、日本人の精神性や国家の自立を問い直している。基本的な流れとしては、ウルトラマンという作品がどのようにして生まれ、シリーズとしてのウルトラマンがどの世に成立し、ウルトラマンの各作品がどのように作られていったのかを記している一冊である。その上で、著者は本書において、ウルトラマンを単なる娯楽ではなく、日本人が守るべき神話として位置づけ、過酷な現実を生き抜くためのメッセージがあるとしている。

本書はウルトラマンシリーズ――ただし、初代からメビウスまで――を時代背景とともに振り返り、各作品に潜む自主防衛のテーマを浮き彫りにすることにあ主眼を置いている。第一作であるウルトラマンでは、異星人からの侵略に対する地球人の対応を戦後日本の立場に重ねて解釈し、第二作のウルトラセブンでは脚本家である金城哲夫氏の沖縄体験を基に、侵略者の視点や戦争の記憶を掘り下げることでウルトラマンアメリカの象徴として描かれる可能性を指摘している。外界からやってきて損得勘定抜きで地球を守ってくれる存在であり、また、侵略する側にとっては厄介極まりない存在となる。

多くの特撮作品と違い、ウルトラマンは人間に擬態している地球外生命体であり、地球人ではないのだ。その異星人が地球のために活躍している。地球人は当事者であるはずなのに協力者になっている。それがウルトラマンシリーズの基本コンセプトである。そこに筆者の歴史的観点があり、思想叙述の題材としてウルトラマンが用いられる。

本書はウルトラマンのファン向けの娯楽書の側面もあるが、著者の政治観や歴史観を投影した論考に近いと言えよう。

 

 

ジェフリー・フェファー著,村井章子訳「「権力」を握る人の法則」(日本経済新聞出版)

「権力」を握る人の法則 (日本経済新聞出版)

Jリーグクラブの伝統行事というか、そのシーズンのホーム最終戦を終えたあとでGMや社長といったクラブのフロントのトップが出てきてサポーターに一言述べる、そして、納得いく成績を残さなかったならばサポーターからブーイングを浴びるという光景がある。

しかし、別にそのようなルールを国際サッカー連盟(FIFA)やアジアサッカー連盟(AFC)、日本サッカー協会(JFA)がさだめているわけではない。ホーム最終戦のあとの一言がなかったとしても別にルール違反ではない。ルール違反ではないのだが、最後の一言がないとなると異例事態に感じる。

2025年12月6日(土)の埼玉スタジアムは本来ならば浦和レッズの社長が出てきて一言述べるべきところであるのだが、無かった。この試合をもって浦和レッズとの契約を終えて退団するチアゴ・サンタナ選手とマリウス・ホイブラーテン選手のスピーチがあったのみであった。これは異例な話である、そう考えたとき、今から14年前に刊行された本書を思い出した。

結論から言うと、浦和レッズの社長の行動は間違っていないのである。企業としての評判、評価、顧客からの信頼、プロフットボールクラブとして考えるならサポーターの信頼を傷つける行動ではある。ただ、本書にある権力を構築し、維持し、権力で以て結果を出すことを考えたとき、必ずしも間違いとは言えないのだ。

本書第10章にもあるように、現在の経営者は平均すると経営資源の11%をコーポレートガバナンス対応に割かねばなくなっている。しかも、その多くは経営を上向かせるどころかむしろマイナスに誘う対応であり、極論すれば無くなってしまったほうが経営を上向かせる内容なのだ。私がMBAで学んだ――そして、学んだ際のレジュメ等の公開が禁じられている教材――によると、こうしたマイナス対応をいかに減らしていくかが限られた経営資源の配分において重要になってきており、サポーターからのブーイングを浴びることと経営とがリンクしないならば、むしろ切り捨ててしまうべきことでもあるのだ。サポーターの心情としては納得できないが、ビジネスとしては納得できる話なのである。

たしかに一見すると、最終戦に姿を見せず、最終戦のあとで一年の反省文をネットに投稿して終わりという、血の通ってない薄情な、そして弱気な対応に感じる。だが、これまでのクラブ運営の失敗を語ったところで失敗が無かったことにはならない。責任の取り方は未来の成功の構築しかないのだ。そう考えると、必ずしも間違った対応であるとは言えないのである。

無論、ビジネス的視点ではともかく、サポーターとしての視点としては納得いかないところがある。このまま来年春から夏にかけても納得いかない状態が続いているとき、私はサポーターとしてではなくビジネスパーソンとして正々堂々と文句を言う手段を手にしていることを思い出し、そして、その手段を発揮することを考えるであろう。

私は株式会社浦和レッドダイヤモンズの株主ではない。

筆頭株主企業であるダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社の株主でもない。

だが、私はダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社の親会社の株主である。まあ、最小単元株しか買ってないからそんなに大口を叩ける身ではないといえばそれまでだが。

 

 

澄川龍一著「アニソン大全:「鉄腕アトム」から「鬼滅の刃」まで」(祥伝社)

アニソン大全 ーー「鉄腕アトム」から「鬼滅の刃」まで (単行本)

今から30年前、日本の産業は様々な分野で世界を席巻していた。家電も、自動車も、そして金融も、日本が世界のトップリーダーであった。

現在、その光景はない。ゼロではないが、乏しい。

しかし、この30年の間にさらなる発展を見せ、世界のトップランナーを走り続けている産業がある。

アニメ産業である。

日本が生み出すアニメーションは世界各地で放送され、あるいは配信され、テレビで、ネットで、さらには映画館で多くの視聴者を楽しませている。30年前の段階で既に日本のアニメーションは世界各地で広く受け入れられていたが、この30年でさらなる進展を見せてきたのだ。

そして、忘れてはならないことがある。実はテレビにおけるアニメーションの放送スタイルは、日本ではじめてのアニメのレギュラー放送である鉄腕アトムの時点で既に固まっていた。すなわち、毎週特定の曜日の特定の時間に30分間に亘って放送するというスタイルである。その週の番組スタート時にはこれから始まる番組がどのような番組であるか、その週の番組の終わり時にはどのような番組であったのか、たとえば、どのような原作に基づいているのか、どの製作会社が作成したか、どんなスタッフが制作に関わったかを紹介しなければならない。この紹介のテロップを流す際に音楽を用いるというスタイルは鉄腕アトムの段階で既に成立していたのである。

無論、時代の移り変わりによる違いはあり、番組終了からいったんCMを挟んだのちに曲を流すスタイルから、番組終了と同時に――あるいはシティーハンターのように番組終了から徐々に――音楽を流すスタイルへと変化するなどあったし、作品によっては番組の開始と終了の双方ではなくどちらか一方のみとする場合や、番組開始と同時に本編を始め、本編の途中で曲を流す場合などもあるが、それでも基本スタイルはかわらない。アニメには始めと終わりの二回、何かしら音楽、その多くは歌を流すものであるというスタイルが確立されている。そして、その曲はそのアニメ作品のための曲であり、既存の曲の流用はゼロではないがレアケースとするしかない。

つまり、新番組としてアニメ番組が始まる際には、新たに作品にリンクする曲も音楽市場に投入されることを意味する。かつてはアニメ番組のオープニングやエンディングの音楽であると言うことで一段低く見られ、レコード店での扱いも雑であり、どんなに売れても評価されることはなかった。それが時代経過とともに新たな楽曲発表用の舞台として認識されるようになり、作品人気とリンクすることで楽曲そのものが日本国内だけでなく世界へと羽ばたくこととなった。アニメーションに関連する楽曲を作ることが音楽の世界における成功の一つのルートとして確立されたのである。

本書はそのようなアニメーション関連の楽曲、いわゆるアニソンについて、その歴史を描写した一冊である。それは、単に懐かしさを感じるだけでなく、アニメーションにおける音楽の重要性とその歴史、そして、音楽ビジネスにおけるアニメーションの立ち位置といったビジネス的視点で捉えることができる一冊であることを意味する。

 

黒沢哲哉編著(第1巻),有田シュン編著(第2巻)「よみがえるケイブンシャの大百科」(いそっぷ社)

よみがえるケイブンシャの大百科 よみがえるケイブンシャの大百科[完結編]

昭和40年代から今世紀初頭にかけて、書店の子供向けのエリアには独自の雰囲気を生み出す書籍群があった。一冊一冊が特撮やアニメ、怪獣、プロ野球、アイドル、ラジコン、恐竜といったテーマごとにそのテーマの内容を網羅した書籍であり、プロ野球やアイドルなど年月を経ると変化するテーマについてはほぼ毎年、最新の情報に刷新した新刊を刊行していた。マンガではない個の書籍を愛読していた子は多く、かくいう私も愛読者の一人であった。生まれる前から我が家にあったこの書籍群のうちの数冊を物心ついたときには読んでいたし、小学校の同級生の多くもこの書籍群を愛読していた。

その書籍群を刊行していた出版社の名を勁文社という。もっとも、漢字表記の社名ではピンとこないかも知れない。しかし、社名をカタカナ表記にするとすぐにイメージがつながるはずである。

ケイブンシャというカタカナ表記が。

そして、ケイブンシャという漢字表記から思い浮かべる「ケイブンシャの大百科」という語が。

残念ながら株式会社勁文社は平成14(2002)年に倒産してしまい、ケイブンシャの大百科も書店の店頭から消えてしまうこととなった。当時小学生であった者の家の書架、あるいはその者の記憶の中にしか残されず、運が良ければ古書店に並んでいるのを目にできるかどうかとなる、はずであった。

そのケイブンシャの大百科が復活した。無論、全777冊が刊行されたケイブンシャの大百科の全ての内容、全てのページを復旧させたわけではなく、本文が掲載されたのは一部に留まるが、それでも全2冊に分かれて刊行された本書で全777冊の全ての表紙とその内容の概略を説明しており、本書を手に取るとあの頃の読みまくった記憶が蘇ってくる。

実にありがたい書籍を刊行してくれたと感嘆するしかない。

欲を言えば電子化して欲しい。この一点だけが要望である。

 

 

橘木俊詔著「中年格差」(青土社)

中年格差

団塊ジュニア世代にとっての平等とは、理念であって現実ではない。

家族を持ち、自分が建てた戸建てやマンションに住み、資産を形成して将来の年金の心配も無い。

家族もなく、狭い賃貸や親の残した住まいに住み、資産など夢物語で将来の年金など期待もできない。

よく、同窓会で格差を思い知った――そして、小学校や中学校でいじめられていた側が成功し、いじめていた側が落ちぶれていた――という話があるが、格差は同窓会で明らかになるほどの甘いレベルではない。そもそも同窓会そのものが開催されず、開催されるにしても通知が来るのは同学年における格差社会の勝者、さらに参加するのは現実社会の格差の勝者に限定されることとなる。もっとも、学校という社会での格差の敗者が実社会で格差の勝者になることは珍しくないといえばその通りであるが……

それでも本書に記されている中高年世代の身に起こっている格差、それもかなり闇の深い格差は厳しい現実を突きつける。正規か非正規か、既婚か未婚か、資産はどれだけ構築しているか、将来の年金はどうなのか、数少ないパイを数多くの人間が奪い合って来た結果が少数の勝者と多数の敗者という構図を生み出し、取り返しの付かない格差を生み出している。

この現実をいかに解消していくのか?

たとえば非正規雇用で不安定な暮らしを余儀なくされている人を正規雇用にするというのは一つのアイデアである。私もそのようなアイデアを一冊にまとめて公表したことがある。

実は、本書冒頭に記されているエピソードも私のマンガのアイデアの一つなのだ。宝塚市で実施した宝塚市の正規職員募集の競争率、実に400倍である。これが氷河期世代の現実である。すなわち、人手がいないという問題に対する回答は氷河期世代に視点を向けることでかなり解決するのである。それも格差解消という副産物を伴って。

本書は厚生労働省の統計や国勢調査を引用し、非正規労働者の賃金格差や未婚率の上昇、自殺率の高さといった、就職氷河期世代の「一度失敗したら挽回不能」という日本社会の構造的問題を説得力を持って暴き出しているのである。

ここにメスを入れることこそ、今後の日本が生き残るために必要な手術なのだ。