德薙零己の読書記録

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

野口実著「増補改訂 中世東国武士団の研究」(戎光祥研究叢書19)

増補改訂 中世東国武士団の研究 (戎光祥研究叢書19)

現在放送中の大河ドラマ、光る君へ。基本的には朝廷を舞台とする雅やかな世界を描いているドラマであるが、本記事執筆時点で既に、後の時代の萌芽、すなわち、武士の姿が見えてくる。源氏物語の時代としてイメージされる世界に武人の姿を見いだすのは困難であるが、実際には武士の姿が見えていた時代である。

そもそも忘れてはならないのは、光る君への時代とは平将門の時代の50年後を描いた世界であるということだ。そして、光る君への次の時代である院政期となると、院に仕える武士の存在など当然の時代となっている。つまり、光る君への時代の前から存在していた武士は、光る君への時代にも存在し、光る君への時代の後にも存在し続けていたのである。歴史は途切れたのではない。視点を向けなかっただけなのである。

関東地方を主軸として、その視点を向けたのが本書である。平将門から鎌倉幕府の成立に至るまでの間にも関東地方に武士は連綿として存在し続けていた。彼らは関東地方の有力者であると同時に、平安京内外へ招かれて検非違使をはじめとする武人として重宝された。前者は個と家の実利を獲得し、後者は家と個の名声を獲得した。朝廷官職は地方の有力者であることに優位に働き、地方の有力者であることはさらなる朝廷官職を獲得するきっかけとなる。そうした武士達の勃興と隆盛の結果として、武士の世が登場し、鎌倉幕府が誕生し、承久の乱を経て、武士は日本国最強の存在となった。

その過程を本書は追いかける。見逃されてきた、しかし、日本の歴史においてある日突然登場したわけではない時代の主軸の足跡が本書に存在する。

川添愛著「言語学バーリ・トゥード Round 2:言語版SASUKEに挑む」(東京大学出版会)

言語学バーリ・トゥード Round 2 言語版SASUKEに挑む

昨日紹介したこちらの書籍の続編である。

rtokunagi.hateblo.jp

20世紀中盤まで、言語学とは人間の話す言語について研究する学問であった。

現在、言語学にはコンピュータもその対象領域に含まれている。

どういうことか?

人間の言語をコンピュータに取り込み、言語をコンピュータに入力するとコンピュータから言語を返す。それは翻訳文であったり、質問に対する返答であったりする。

しかし、これは言語学的に考えると、言うは易し、作るは難しである。

コンピュータに人間の言語を理解させるのは何とも難しいのだ。

人工知能(AI)でもっとも難しい言語認識は意味と意図に差異があるケースであるという。その顕著な例が、前巻のサブタイトルでもあったダチョウ倶楽部の「押すなよ 絶対に押すなよ」である。押してはならないと訴えているが、実際には熱湯の張った風呂に落としてほしいと求めているのである。

OpenAI は人間のやりとりしてきた言語を取り込み、その上で文章などを生成する。しかし、その背後に存在する意味までは認識しない。今のところは。

本書の作者も本書の中で、ChatGPTに課金して「押すなよ、絶対押すなよ」を問い合わせてみたという。そのまま転載するのも何なので、私も同じことをしてみた。その結果は著者がチャレンジしてみたのと同じ結果である。

人道的に正しい回答をChatPGTはするのだ。

その他にも本書は、前作と同様に言語学に対する様々な話題を読みやすく、わかりやすく記している。

たとえばメトニミーの許されない世界の思考実験はなかなかに面白い。「一升瓶を飲み干す」は「一升瓶の中に入った液体を飲み干す」でないと罰金になり、「鍋を食べる」は本当に鍋を食べなければならず(そのために文字通り食べることのできる鍋も売っている)、「鍋を作る」は調理器具である鍋を作りあげなければならない(そのために鍋を作る職人を招いて本当に鍋を作る)、そうしないと罰金が待っているという社会である。言語学的には正確だが、そんな社会はとてもつらい。

 

川添愛著「言語学バーリ・トゥード Round 1:AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか」(東京大学出版会)

言語学バーリ・トゥード

本書は間違いなく東京大学出版会の刊行する言語学に対する書籍である。もともとが東京大学で配布されている雑誌『UP』に掲載されているエッセイをまとめた書籍である。著者が言語学者であり、タイトルからし言語学に関する本なのだから、普通に考えれば書店の言語学の棚に並んでいるところであろう。

ところがどういうわけか、言語学の棚を探しても見つからず、スポーツの棚のプロレスのコーナーに置かれていた。

もっとも、実際に読んでみると書店員の感覚も理解できなくもない。プロレスへの造詣の深い著者は、言語学を解説する際に頻繁にプロレスを引用しているのである。言語学への興味は深いがプロレスへの知識は乏しいという読者と、プロレスには詳しいが言語学に対する興味は乏しいという読者の二人がいるとして、本書が手に取るのはどちらであるかを考えると、手に取るであろう読者は後者である。

本書からの例を挙げると、ラッシャー木村選手の「こんばんは」事件である。ラッシャー木村選手の所属していた国際プロレスが経営上の理由で解散となり、新日本プロレスのリングに殴り込みを掛けてきて、さあ、いったいどういう言葉でラッシャー木村選手は新日本プロレスに向かい合うのかとファンが身構えていたところで出た、ラッシャー木村選手の「こんばんは」。これにファンは絶句し、ずっこけた。

なぜ、ずっこけたのか?

著者はその理由を言語学的に解説していく。

本著の著者は言語学者であると同時に作家でもあり、また、マイナーな漫画にも深い理解がある人であるため、言語の解説をかなりわかりやすく、身近な話題で説明している。もともとの掲載誌が東大生向けの雑誌であるのは事実でも、本訴の著者は東大生だけをターゲットとはせず、より幅広い読者に向けて文章を書き記している。読みやすく、没入しやすく、それでいて言語学に対する理解が深まっていく、なんとも奇妙な書籍である。

 

ポール・ミルグロム&ジョン・ロバーツ著,奥野正寛&伊藤秀史&今井晴雄&西村理&八木甫訳「組織の経済学」(NTT出版)

組織の経済学

チームスポーツには一つの宿命がある。レギュラー争いという宿命である。どんなに実績を残した選手であろうと、どんなに実力を期待されている選手であろうと、試合出場を確約できるわけではない。

そのため、一度レギュラーの座を掴んだ選手は、レギュラーの地位を手放さないように全力を尽くすようになる。練習を重ね、試合で結果を出し、他者の目標となる選手となることでレギュラーにあり続けようとする。

ここに落とし穴がある。

ケガをしてしまうのだ。それも、本人は問題ない小さなケガであると考えて無理をして試合に出場し続けることで、取り返しのつかない大ケガに発展してしまうのだ。

この問題に真正面から向かい合い、そして解決を見せたのがNFLのサンフランシスコ49ersである。レギュラーであるA選手と、A選手の控えであるB選手がいて、A選手がケガで離脱したあとでB選手が大活躍して選手の代わりにレギュラーに定着しても、A選手がケガから復帰したらA選手を絶対にレギュラーに戻す。例外はない。このシステムにより、軽傷で早い段階で試合を休んでおけば数試合の離脱で済むところを、レギュラーの座を奪われないようケガを隠して無理して出場して悪化させることを防ぐことができる。これが49ersの決断であった。

 

本書は2020年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ミルグロム氏の著した現代企業の経済学を掘り下げた包括的な本である。人々の動機づけや活動の調整など、組織が直面する中心的な問題を体系的に取り上げており、現代経済学や他の学問分野の様々な洞察に基づいて記している。上記の49ersの取り組みもそのうちの一つである。

邦訳版は全702ページの大著であり、読了までにかなり時間を要すであろう。かく言う私も本書を読んだのは、COVID-19のために外出できなかった時期に自宅に籠もってのことである。

 

追伸

第8章の「高賃金が誠実な行動を導くという考え方は昔から存在した」「潤沢な報酬を与えなければいかなる改革も成功しないであろうという正当な結論」は声を大にして幅広く展開すべき言葉である。



倉田保雄著「エッフェル塔ものがたり」(岩波新書 黄版228)

エッフェル塔ものがたり (1983年) (岩波新書)

本書は、万博の目玉として建設されたエッフェル塔がどのようにしてパリの、フランスの社会に溶け込み、歴史に於いてどのような役割を果たしてきたかをまとめた一冊である。

ただ、その程度のありきたりな文章では本書の魅力を伝えきれない。

本書の魅力は本書の一部抜粋だけでも御理解いただけるはずである。

 

 

1940年5月、ナチスドイツがフランスへ侵攻。マジノ要塞でドイツ軍を食い止める戦略を採っていたフランス軍であるが、ナチスドイツはアルデンヌの森から戦車部隊を投入したことでフランスの防衛戦は崩壊。6月には首都パリにナチスドイツが無血入城し、エッフェル塔に掲げられていた国旗は降ろされた。

と同時に、エッフェル塔のエレベータが停まった。
1台だけではない。全てのエレベータが停まった。
工兵が修理しても、エンジニアを呼び寄せても、エレベータは1台も動かないまま時間だけが経過した。

エッフェル塔そのものがナチス支配下に置かれ、エッフェル塔に上り下りできるのはナチスドイツの兵士とナチスの関係者だけになった。その全員が、エッフェル塔の階段を上り下りするしかなかった。エレベータが全く動かないのだ。

当初はただちにエレベータを修理せよという命令でった。それが、ヒトラーがパリにやって来るまでにエレベータを修理せよという命令になり、ヒトラーがパリに来てエッフェル塔の前に来てもエレベータが動かないままであると報告するしかなくなっていた。

ナチス占領下のパリ市民たちはエッフェル塔を見つめるしかできなかった。エッフェル塔ナチスのものになり、多くのフランス人には近寄れない場所になっていた。密かに抵抗するフランス人の救いの一つとなっていたのがエッフェル塔だった。

エッフェル塔はたしかにナチスのものになっている。
エッフェル塔に近寄ることもできないでいる。
それでも、エッフェル塔のエレベータが動かないという知らせは、エッフェル塔ナチスに抵抗していることをフランス市民に伝えるかのようであった。

パリがナチスの手に落ちてからおよそ4年を経た1944年6月、ノルマンディー上陸作戦開始。連合軍の反撃にナチスドイツは撤退をはじめ、それまでナチスの前に抵抗を見せずにいたフランス人も連合軍に呼応して立ち上がった。

情勢は連合軍有利に進み、5月24日、ヒトラーはパリのコルティッツ大将のもとに「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」と指令を出した。いわゆる「パリ廃墟命令」である。パリに向かう連合軍と、パリ市内で抵抗するレジスタンスの前にコルティッツは命令を拒否。

8月25日午前0時、連合軍のパリ突入開始、当日正午、エッフェル塔トリコロールが蘇った。パリ占領の日、エッフェル塔に掲げられていたトリコロールを降ろした消防士自身が、あの日降ろさざるを得なくなっていたトリコロールを手にして、エッフェル塔に赴いた。

この時点ではまだエッフェル塔のエレベータが停まったままである。トリコロールを掲げるためにエッフェル塔にやってきた消防士も階段を駆け上がってやってきた。ナチスの物となっていた間、エッフェル塔は一度もエレベータを動かすことがなかった。

エッフェル塔を取り戻したことに喜ぶ中、工具箱を手にしたエンジニアがやってきた。エンジニアはエッフェル塔の機械室に現れると、数分ほどねじ回しを使ってあれこれといじった。するとどうしたことか、それまで全く動かずに停まったままであったエッフェル塔のエレベータがスーっと動き出したのだ。

ナチスが何をしても動かなかったエレベータをこのエンジニアが直したことは間違いない。しかし、いったいどうやって直したというのか。
エンジニアは言った。「なあに、小さなネジをちょっとばかり締めただけのことですよ」

加藤尚武著「ジョークの哲学」(講談社現代新書)

ジョークの哲学 (講談社現代新書 857)

9月6日、小泉進次郎環境相自民党総裁選への出馬を正式表明した際の記者会見で、一つの話題が湧き上がった。フリージャーナリストの田中龍作氏から「小泉さんがこの先、首相になってG7に出席されたら、知的レベルの低さで恥をかくのではないかと、皆さん心配しております」との質問に対し、小泉氏は全く感情的になることなく、完膚なきまでに論破したのである。田中龍作氏は小泉氏の知的レベルに疑念を持っていたようであるが、知的レベルに疑念を持たれるようになったのは田中龍作氏のほうであった。

ジョークを生み出すのに必要なのは、冷静さである。物事に対して冷笑に対する批判的な向きはあるが、物事に対して感情的に振る舞う人間より冷笑でいられる人間のほうが遙かに優れており、はるかに恐ろしい存在である。

なぜか?

争いは同じレベルの者でなければ発生しない。感情をあるがままに発露している人間は所詮その程度の人間だということである。しかし、冷笑で相手にされると敗北しかなくなる。敵わなくなるのだ。

では、どのようにすれば冷笑を身につけることができるのか?

端的に言えば知性である。知力を向上させることが冷笑を生み出せる。その中でわかりやすい指標がジョークを創り出し、ジョークを相手にぶつける能力である。ジョークを理解する能力や発現する能力が乏しければ感情をそのまま発露するしかできなくなる。先に挙げた田中龍作氏は感情の発露を狙ったのであろう。しかし、小泉氏は冷笑で対応できた。

そう言えば、田中龍作氏の𝕏(旧Twitter)の書き込みを見ると、「この人はこれを面白いと思って書き込んでいるのだろうか?」と哀れむしかないみっともない内容しかない。あの人は冷笑できる格上の人達に対してネトウヨという悔し紛れのレッテルを貼ることでごまかしているようであるが……

三沢典丈著,中川右介監修「アニメ大国の神様たち:時代を築いたアニメ人インタビューズ」(イースト・プレス)

アニメ大国の神様たち 時代を築いたアニメ人 インタビューズ

本書は中日新聞で連載していた「アニメ大国の肖像」をまとめた書籍である。「アニメ大国の肖像」は日本国におけるアニメーション製作に携わってきた方々へのインタビューであり、そこにはアニメーション作品作成時のリアルが語られている。

以下が本書の目次である。

見聞きしたことのある方や名前は存じ上げなくても作品は知っているという方の名が挙がっている。それらの作品がどのようにできたか、特に、その時代ならではの制約の中でどのように作品を世に送り出してきたかという視点で、本書に記されている内容は、栄華の裏に隠された苦悩である。

そして、現在のアニメーション製作事情も称賛されうるものではない。そこには何かしらの構造的問題が存在する。その構造的問題を歴史に求めると、先人達の苦悩に行き当たる。そして、現在進行形で解決しようと藻掻き苦しむ情景も見えてくる。