いささめに読書記録をひとしずく

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

齊藤忠光著「地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち」(平凡社新書0940)

地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち (平凡社新書0940)

我々が自明のものとして暮らす都道府県や市町村という行政区画。しかし、地図上に引かれた一本の境界線は、自然に発生したものではない。そこには、古代から現代まで、国家権力が民衆を把握し統治しようとしてきた意志と、それに適応あるいは対抗してきた地域社会の闘争の履歴が幾重にも堆積している。

著者はバブル崩壊後、GIS(地理情報システム)の「全国町丁目大字界地図データベース」の企画開発に関わり、境界線の曖昧さに直面したことが境界の歴史を調べる原点になったという。修士論文をベースに執筆された本書は、単なる地方制度の沿革史にとどまらず、空間を人為的に区分する境界という営みを通じて、日本人がどのように空間を認識し、「ふるさと」を形成してきたかを探究するドキュメントである。

本書の前半で目を引くのは、日本の地方区分が持つ驚くべき歴史的連続性である。

日本の「国(クニ)」は、大和政権による国郡制度の導入に始まり、大宝律令を経て、天長元(824)年には全国六十八ヶ国として画定された。ちなみに、一般的に六十六とされることが多いが、これは先に六十六ヵ国という言い方が確立して固定化された後に令制国が増えた結果である。このときに誕生した、薩摩、土佐、甲斐、信濃といった令制国名と領域は、その後の天下統一や江戸幕府の支配を経ても解体されることなく継承された。人々が「ふるさとに帰る」ことを今なお「国(クニ)に帰る」と呼ぶ背景には、律令時代から変わらなかった強固な区分が、人々の風土やアイデンティティと深く結びついていたからである。

著者は、現存する最古の日本全図とされる「行基図」や「南瞻部洲大日本国正統図」を紹介し、これらの地図において世界の中心は常に都――その多くは平安京のある山城国――に置かれ、周囲には架空の「羅利国」や「雁道」が描かれていた。中世の日本人が抱いた世界観はこの国郡の範囲に収まっており、それは地図のなかに生きていたのである。

こうした支配構造の末端を支えたのが、中世から近世にかけての「村」である。江戸期の村は、検地を村単位で受け、年貢や諸負担を村全体で請け負い、独自の村役人を置いて自主的に運営された。さらには近隣の村との「山論」や「野論」といった境界紛争において、現在の感覚で行くと法人格を持った状態で裁判に挑む存在でもあった。豊臣秀吉の「村切り」によって画定されたこれらの「行政村」は、極めて高い独立性を持つ生活共同体であったのである。

律令制から途切れることなく蓄積されてきた国>郡>里≒村の三層構造を、近代的中央集権国家へと塗り替えていったのが、明治維新期の廃藩置県である。

明治4(1871)年の廃藩置県は、知藩事を罷免し、中央から官選知事を派遣する大改革であった。しかし当初は旧藩の支配地や飛地をそのまま引き継いだため総数は300を越え、下総国海上郡(現在の千葉県銚子市付近)では、わずかな領域の中に佐倉県や高崎県など6つもの県の飛地が混在する事態となった。政府はこれらの飛地を整理するため、第一次、第二次の府県統合を強行し、明治21(1888)年の香川県再置をもって現在の47都道府県が確定した。

ただし、このあとで第三次の府県統合が検討されており、これが実現すると都道府県の数は47よりもっと少なくなる想定であった。明治36(1903)年に内務省で作成されながらも幻に終わった「府県廃置法律案」の紹介である。これは北海道と沖縄を除く45の府県を26府県にまで強引に大統合するものであった。この案では、岩手県南部を宮城県に、茨城県南部を千葉県に編入し、栃木・群馬と茨城北部を宇都宮県にし、静岡県の東部を神奈川県に、西部を愛知県に分割編入することになっていたなど、現在の視点からすると違和感を覚えるものの、府県の統廃合や新設が日常であった明治時代では、自然地勢や河川の流域、歴史的な広域経済圏を極めて合理的に反映した再編案であった。言わば、今日議論されている道州制や、あるいは平成の大合併を先取りした、極めて先進的かつ冷徹な空間の官治的デザインであったともいえるのである。

都道府県の成立と並行して、民衆に身近な町村のレベルでも、近代国家の都合による再編が進められた。著者はここに、自律的な「まち」や「むら」が、国家の行政末端としての「町村」へと変容・矮小化されていく「暴力性」を読み取る。

明治5年の「大区小区制」は、伝統的な村社会の慣習を完全に無視し、税収や徴兵の効率性のみを追求した極めて不評な制度であった。その後一時的に「郡区町村編制法」で伝統的町村が復活したものの、それも長くは続かなかった。

明治22(1889)年の「市制町村制」、いわゆる「明治の町村大合併」は、全国に7万以上あった町村を一気に1万5000ほどに減少させた。これによって消滅した江戸時代以来の旧村は、単なる地名表記上の「大字(おおあざ)」へと変格された。自治権を剥奪された「大字」は、意思決定の主体ではなく、新設された巨大な新町村のなかに包摂された一集落へと堕したのである。

さらに著者が強い懸念を示すのは、戦後の昭和37(1962)年に制定された「住居表示法」による地名の解体である。画一的な運用によって、鍛冶屋町、材木町、小川町といった自然地形や歴史的な文化に由来する由由緒ある旧町名が次々と消滅し、無機質な記号へと書き換えられていった。著者はここで、東京都千代田区における「神田猿楽町」「神田三崎町」の地名復活運動や、金沢市における旧町名復活制度、大分県豊後高田市での市民運動の成功を温かい眼差しで紹介する。歴史的な地名とは、そこに生きた人々の生活の記憶が刻まれた無形の文化遺産であり、それを合理性の名のもとに消し去ることは、地域のアイデンティティそのものを消滅させるに等しいと著者は警告している。

そして、本書の議論は最終的に、人口減少社会において、この国の空間をいかに管理すべきかという切実な問いへと収斂する。

日本は、平成20(2008)年に1億2800万人超のピークに達した後、急激な人口減少時代に突入した。この縮小社会において、政府が主導した平成の市町村大合併は、極めて大きな歪みを生み出した。合併後の市町村は、面積が県よりも広い岐阜県高山市から、最小の富山県舟橋村まで、実に627倍もの格差を抱えることとなった。この格差は住民サービスの格差を招き、中心部への予算集中による旧周辺部の急速な限界集落化を加速させた。本庁舎がなくなった旧自治体区域では、合併後の15年間で人口が17%以上も減少したというデータは、合併が地方の衰退をむしろ加速させた現実を示している。

これに対するこれからの広域行政のあり方として、著者は都道府県の枠組みを超える「道州制」や、自治体が緩やかに連携する「連携中枢都市圏構想」を提示する。福山市を中心として岡山・広島両県にまたがり連携する「備後圏域」の事例は、現在の都道府県という境界が実態と乖離してきたかを示していると著者は指摘する。

そして著者が最も有力な解決策として提示するのが、市町村内部の「地域自治区」制度である。その模範事例として挙げられるのが、平成の大合併によって14の市町村が合併した新潟県上越市の試みである。上越市は、旧上越市の区域を除く合併前の旧13の町村の区域にそれぞれ地域自治区と自治区事務所、住民参加による地域協議会を設置した。さらに旧上越市の区域にも新たな15の地域自治区を設け、全域を28の自治区として再編した。これにより、広大化した新市の行政に埋没しがちな旧町村や旧集落の住民が、地域の防災や福祉などの身近な課題について自ら意見を表明し、主体的に決定できる仕組みを担保している。

自治会や町内会の負担が限界に達するなかで、法律に基づき、すべての住民が構成員となる地域自治区という住民自治のインフラは、縮小社会における生活の質を維持するための、最も現実的な処方箋であると著者は語る。

著者が本書を通じて私たちに見せてくれるのは、単なる制度の沿革や数字のデータではない。それは、地図の上に描かれた一本の境界線に宿る、人々の切実な「生」の痕跡と、国家という統治機構による冷徹な「意思」のせめぎ合いである。

今に生きる我々は、住む場所の境界を、当たり前の不動のものと考えてしまいがちである。しかし、本書を読むと、まさに境界こそが歴史のダイナミズムそのものであり、絶えず変化し続けてきた「器」であることが理解できる。人口が急激に減少し、拡大を前提としたインフラが維持できなくなるこれからの時代、私たちは再び境界の引き直しについて根本的な決断を迫られる。

そのとき、過去の権力者がいかに空間をデザインし、それに対して民衆がどのように自律的なコミュニティを守り、育んできたかという歴史の知恵は、私たちが未来の日本社会を構想するための道標となるはずである。

鈴木貞美著「日記で読む日本文化史」(平凡社新書825)

日記で読む日本文化史 (平凡社新書825)

日本文学研究の第一人者ドナルド・キーンは、第二次世界大戦期、戦場に遺棄された大量の日本人兵士の日記を翻訳して日記という表現がいかに日本人の心に深く根づいているかを痛感したという。キーンが指摘するように、新年になると旧日本軍ではわざわざ日記帳が支給され、兵士たちが戦時下にあっても日々の記録を克明に綴っていた事実は他国の軍隊には見られない特異な日記文化の定着を物語っているといえよう。何しろ、江戸時代の寺院に残された「宗門改帳」から18世紀の人口動態を解明する研究が成立するほど、この列島には「日々の生を書き留める」という行為が古くから深く根づいてきたのだ。

では、なぜこれほどまでに、日記を綴る文化が日本社会に広がり、受け継がれてきたのか?

この茫洋とした謎に対し、著者は古代の宮廷文化における公権力の記録から、中世の紀行文、近世の庶民による暮らしの記述、近代の日記帖の商品化、そして現代のブログやSNSに至るまで、「日記」と呼ばれる記述様式とそれを支える価値観が、時代ごとにいかに変容してきたかをまとめている。

著者が「日記は、惑わしに満ちている」と警鐘を鳴らすように、他人の日記を読み、あるいは自ら日記を綴るという行為は、常に自己保身や虚構の誘惑と隣り合わせであった。本書は、その誘惑の歴史的文脈を解き明かすことで、日本人が「書く」という行為を通じてどのような自己認識や他者関係を構築してきたかを明らかにする見取り図なのである。

日本における「日記」の語源は、公権力の日記に始まる。起居注などの中国の制度に倣い、天皇の詔勅や宣命、位記を作成する内記が「御所記録」、外記が「宮廷儀式の記録」を残した。これが蔵人日記や検非違使日記といった公的な日録へと広がっていったのである。

しかし、ここに日本流の決定的な逸脱が生じる。中国においては、皇帝自らが起居注を記すことなどはあり得ない話であったが、日本においては、宇多天皇をはじめとする歴代天皇が、自らの直筆で日録を記す習慣が生まれた。こうした天皇をはじめとする高貴な人の日記を「御記(ぎょき)」という。藤原良房以降、律令制度が崩壊へと向かう過程で宮廷財政が困窮し、公的な官記の作成が途絶すると、朝廷の権威を支える儀礼を存続させるために、先祖伝来の儀式記録である「家記」を保持する「日記の家」が重んじられるようになる。小野宮流藤原氏や高棟王流桓武平氏などの「~流」がこうした「家」に相当する。

藤原北家、特に藤原忠平や藤原実頼、そして藤原道長らは、具注暦の余白や紙背に日々の宮廷行事の次第や有職故実の控えを書き込むことで典礼の管理権を握り、天皇との縁戚関係と並ぶ摂関政治の権力基盤を確立させた。すなわち、初期の日本における「日記」は、内面を吐露する私的な告白の場などではなく、儀礼の継承を通じて王権の支配構造に参画し、権力を掌握するための政治的な鍵であった。

今日、我々が古典の教科書を通じて自明のものとして受け入れている『かげろふ日記』や『更級日記』、『和泉式部日記』などの「日記文学」というジャンルは、古代や中世においては存在しないジャンルであった。当時は和歌を核とした「歌日記」や「歌物語」、あるいは「つくり物語」との中間的な性質を持つ個人の回想記にすぎず、これらを日記形態上、一つに括る意識は生じていなかった。

本書によれば、日記文学という括り方は、大正から昭和初期にかけて発明された近代の言説にすぎないという。英文学者の土居光知が『文学序説』(大正11(1922)年)において「日記文学」の語を最初に用い、国文学者の池田亀鑑が『宮廷女流日記文学』(昭和3(1928)年)において「自照文学」として定式化したプロセスが、その誕生の瞬間であった。

この発明の背景にあったのは、明治後期から大正期にかけて日本の文壇を席巻した「私小説」や「心境小説」の隆盛である。当時の文学者や研究者たちは、西洋から流入したイッヒ・ロマンの受容によって始まった自らの私小説の正当性を証明し、その根源を自国の古典に遡らせるために、平安朝の女性たちの記述を内面表白の文学として再解釈し、いわゆる「私小説伝統」なる系譜を事後的に作り上げたのである。著者は、こうしたジャンル概念がのちの国語教育を通じて人々の頭に刷り込まれ、あたかも日本に固有の伝統が存在するかのような茫洋とした伝統観が作り出されていった過程を描き出していく。

明治27(1894)年、博文館が「懐中日記」を、翌年には「当用日記」を発売したことは、日記を一般大衆の生活必需品へと変貌させる決定的な契機となった。英語の diary に相当する予定の書き込みと一日の出来事の備忘録を兼ね備えた定型日記帖の普及は、人々の時間意識を近代的に再編する役割を果たした。明治28(1895)年用の「吾家の歴史」の発売背景に、民法制定に向けた家族制度再編の動きがあったことも見逃せない。

さらに重要なのは、記述を支える言文一致体の定着プロセスに対する日記の寄与である。明治33(1900)年から正岡子規の主導のもと、高浜虚子によって刊行されていた俳句雑誌『ホトトギス』が開始した「週間日記」および「一日記事」の一般公募は、日本文学史上、極めて過小評価されてきた一大転換点であった。

正岡子規は、自らが提唱した叙事文の技法を散文に転用し、時時刻刻と変化する外界の印象や日々の暮らしの細部を簡潔に写し取る記述を読者に求めた。それに応じた銀行員、工事監督、車夫、牛乳搾取業者、深窓の令嬢といった各階層の庶民による応募日記は、漢文崩しの読み下し体に習熟していないがゆえに、口語に近い文章スタイルをベースに書き記すこととなった。この市井の人々の「生」の記録こそが、小説家たちによる観念的な試みを超えて、近代的言文一致体を社会の実生活の底辺において肉体化させ、定着させていったのである。

20世紀への転換期はまた、日記が、職務や行事の公的記録から内面の自己反省や告白へと機能的重心を移した時代でもあった。日清戦争から日露戦争にかけての期間、競争社会の到来によって青年たちの価値観が混乱し、煩悶が社会問題化する中で、自己の心身を反省・管理するための修養ブームが到来する。この文脈で生まれた「修養日記」は、のちに帝国軍人としての規律を内面化するための義務的な「反省日記」へと転用されていくが、国木田独歩が『欺かざるの記』において「己が魂(ソウル)の伝記」として内面の格闘を綴り、あるいは阿部次郎が『三太郎の日記』(大正3(1914)年)において「内生活直写の文学」を提唱したことは、日記を「生活の芸術化」の手段とする若者たちの熱狂を呼んだ。

戦後に入ると、この「書く」という行為は、杉浦明平らが提唱した、たった1回しか起こらない現実の現象をあるがままに記録する「記録文学」の精神と結びつき、庶民が自らの戦争体験を綴る「自分史」の流行へと収斂していった。

そして1960年代から70年代にかけて、原口統三『二十歳のエチュード』、奥浩平『青春の墓標』、高野悦子『二十歳の原点』、岸上大作『もう一つの意思表示』といった、学生運動や思想的葛藤などの社会の激変の中で自死を選び、あるいは病に冒されて逝った「夭逝者の日記」が、ベストセラーとして若者たちに貪り読まれるようになる。他人のむき出しの内面の苦悩に親密に寄り添うという日記の持つ危険な魅力は、高度経済成長期の精神的空虚を埋めるメディア消費として大衆社会に消費されていった。

今日、インターネット上のブログやSNSを介して、個人のプライベートが公然化する社会において、日記の持つ親密さとの付き合い方は、さらに根深い問いとして我々に突きつけられている。

著者は本書の最後において、改めて「日記は、惑わしに満ちている」と述べている。日記を綴るという行為、あるいは他人の日記を読むという行為には、書き手の自己保身や、他人の目を警戒した戦略的虚構性が常に付きまとっている。政治家が自らの公明正大さをアピールするために戦後に加筆を試み、文豪が自らの潔癖さを際立たせるために日記を周到に演出する。また、読み手も自らの関心や時代状況に応じて、本来は無味乾燥な実務記録である日記に、過剰な叙情や内面を勝手に読み取って物語化してしまう。

それでもなお、本書が描き出す日記の歴史は、決して虚無主義的な冷笑とはならない。むしろ、1回きりの生を生きる人間たちが、時代の過酷な制約の中で、文字というメディアを用いて自らの足跡を残し、世界と自らを繋ぎ止めようと足掻いた、生命の痕跡の重層的な歴史である。

 

関裕二著「継体天皇の謎:古代史最大の秘密を握る大王の正体」(PHP研究所)

継体天皇の謎

話題になっている継体天皇について発表された書籍の一つであるが、本書は過去三日に亘って公開した書籍とは一線を画した論評を示した一冊である。

rtokunagi.hateblo.jp

rtokunagi.hateblo.jp

rtokunagi.hateblo.jp

 

第二十六代継体天皇の即位は、古代日本史における最大の謎の一つである。先帝である第二十五代武烈天皇の崩御に伴って直系の後継者が絶えた際、大伴金村らの主導によって、越前や近江に拠点を置かれていた「応神天皇五世の孫」にあたる男大跡王――のちの継体天皇――が大和へ迎え入れられた。しかし、世系が離れた地方の皇族がご即位される必然性は乏しく、現行の皇室に置き換えれば江戸時代の仁孝天皇の五世の孫を地方で探してご即位いただくような異例さを孕んでいる。

この問題についてはかなり以前から研究者の間で様々な意見が交わされており、従来の万世一系論に対抗するかのように戦後台頭した「新王朝樹立説(王朝交替説)」はその一例と言えるが、現在も多様な学説が並び立っているのが現状である。

本書はまず、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、そして継体天皇という四代の天皇が「初代」としての属性を有している点に着目し、その重複の謎を出発点として提示する。

第一章においては、『日本書紀』と『古事記』の記述の食い違いを検証し、水野祐氏の三王朝交替説や江上波夫氏の騎馬民族説、さらに『上宮記』をめぐる系譜論争を多角的に整理していく。

続く第二章では、日本第二位の面積を誇る誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の異例の大きさと、『日本書紀』において崩御・埋葬記事が欠落している不審点から、神功皇后と応神天皇のご出生に秘められた真実に迫る。

第三章では、三世紀の纏向遺跡の出現や吉備および出雲の動向を辿り、『日本書紀』編纂者(藤原氏)によって抹殺されたとされる蘇我氏の祖・武内宿禰の正体を照らし出す。

そして第四章において、継体天皇擁立の影の主役である尾張氏に光を当て、今城塚古墳と断夫山古墳の同一規格性や、安閑天皇と宣化天皇からなる「安閑・宣化朝」と欽明天皇との「二朝併立」の真相を解明していく。

さらに本書の結びでは、卑弥呼の後継者である台与の怨霊鎮魂と王権リセット、そして浦島太郎伝説に託された歴史の暗号へと到達するのである。

本書が提示する分析の独自性は、主に以下の三点に集約される。

第一に、考古学的データに基づく尾張氏の再評価である。著者は、継体天皇の真の陵墓とされる今城塚古墳(全長三百五十メートル)と、尾張氏の本拠地である愛知県に存在する断夫山古墳(今城塚古墳の八割の規模)および味美二子山古墳(今城塚古墳の五割の規模)が、全く同一の縮小規格で造営されている事実に注目する。これは単なる偶然ではなく、尾張氏の妃・目子媛を通じた親密な政治的・血縁的同盟関係を物語る動かぬ証拠であり、通説が軽視してきた尾張氏こそが継体天皇擁立の核心的存在であったことを裏付ける。

第二に、「王権リセット」という視点による歴史像の提示である。『日本書紀』は前帝である武烈天皇の異常な悪行を強調して中国の易姓革命的な正当性を匂わせる一方で、継体天皇を「応神五世の孫」と明記して血統の継続を主張するという相反した態度をとる。通説はこれを単なる「新王朝の隠蔽」と解釈するが、著者はこれを「王権のリセット」と捉える。五世紀に雄略天皇や武烈天皇といった独裁指向の強い大王が出現してヤマト政権が危機に瀕した際、従来の伝統である豪族層の合議制と司祭者的・徳治的なあり方へと体制を回帰させるため、大伴氏や尾張氏、武内宿禰の末裔らが「忘れ去られた御子」として継体天皇を担ぎ上げたのだと論じる。

第三に、神話・民俗伝承と『日本書紀』編纂意図の結びつけである。著者は、八世紀の『日本書紀』編纂の最大の目的が「蘇我氏の正体抹殺」にあったと主張する。蘇我氏の祖である武内宿禰と三世紀の建国(邪馬台国、ならびに卑弥呼と台与)との結びつきを切断するため、歴史は神話的時代へと分散・改変されたとする。建国期に裏切られて倒れた台与の怨霊を封じ込めるため、神武東征や応神天皇のご即位という故事にならって東方から皇統を引く指導者――継体天皇――をお迎えする必要があったとし、その真相が民間説話である浦島太郎伝説の深層に暗号として残されたと結論付けるのである。

本書は、文献史学の解釈にとどまらず、古墳の形状や配置という考古学的データ、さらには各地の神社伝承や民俗説話(浦島太郎など)を縦横無尽に交差させるスリリングな推理のプロセスを見せている。特に『日本書紀』の編纂意図(蘇我氏・尾張氏の不自然な冷遇)を疑う視点は、静的な史料解釈に陥りがちな読者に強い知的刺激を与える。

一方で、著者の展開する仮説には、学術的・実証的な観点から慎重な吟味を要する部分も存在する。例えば、応神天皇と神武天皇を同一視する見解や、漢風諡号「継体」に「干戈の主(武力制圧者)」のニュアンスを読み解く解釈、さらには「トヨの祟り封じ」という宗教的動機を王権リセットの主因に置く論理は、きわめて魅力的で説得力を持つ反面、史料的裏付けの連続性という点では歴史作家らしい大胆な跳躍を含んでいる。読者は、本書の主張を固定化された「新事実」として鵜呑みにするのではなく、古代史という未解決のパズルに挑む一つの「鋭利な仮説」として読み解く姿勢が求められよう。

本書は単に「継体天皇とは何者か」という局所的な疑問に答えるだけの本ではない。六世紀の継体朝の謎を解き明かす鍵が、三世紀、さらには邪馬台国の時代にまで繋がっているという壮大な地平を提示してみせた点に、本書の真価がある。

継体天皇の謎

継体天皇の謎

Amazon

水谷千秋著「継体天皇と朝鮮半島の謎」(文春新書)

継体天皇と朝鮮半島の謎

昨日紹介したこちらの書籍の続編というべき一冊である。

rtokunagi.hateblo.jp

日本古代史において、六世紀初頭にご即位された第二十六代継体天皇ほど、多くの謎と議論を呼び続けてきた天皇はおられない。『日本書紀』や『古事記』によれば、応神天皇五世の孫とされながらも、大和から遠く離れた近江や越前でお育ちになり、武烈天皇の崩御に伴って大和へ迎え入れられたとされる。しかし、ご即位から大和の磐余玉穂宮にお入りになるまでに二十年もの歳月を要したことや、旧来の皇室との血縁関係の薄さから、かつては「新王朝の創始者」あるいは「王朝交代」を意味する人物として活発な議論が交わされてきた。

本書はこうした継体天皇をめぐる重層的な謎に対し、最新の考古学的成果と文献史学の精密な史料批判を対比・統合させることで、画期的な像を提示した一冊である。本書の最大の特質は、継体天皇のご即位劇や権力基盤の形成を日本列島内部の政争にとどまるものとして捉えるのではなく、当時の東アジア、とりわけ朝鮮半島の緊迫した国際情勢との直接的な連動の中で鮮やかに描き出した点にある。

本書はまず第一章および第二章において、継体天皇の真の陵墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳における広大な埴輪群の発掘や、二上山白石・龍山石・阿蘇ピンク石という三種の石棺が示す異例の構造を出発点として提示する。その上で、古文書である『上宮記』逸文や『古事記』『日本書紀』の系譜記述を詳細に検討し、継体天皇の出自が近江高島郡(三尾氏)および越前(坂井郡)に深く根ざしていたことを解き明かす。近江高島郡の南市東遺跡や下反田遺跡などの考古学的発掘によれば、この地域には五世紀から六世紀にかけてオンドル状遺構を備えた竪穴住居群や須恵器、韓式土器などが多数存在し、渡来人と在来の豪族が密接に共生する先進的な土地であったことが立証されている。

続く第三章から第五章にかけては、継体政権の成立を支えた「威信財」の流通と渡来人ネットワークの重要性が論じられる。滋賀県高島市の鴨稲荷古墳から出土した金銅製の広帯二山式冠や捩じり環頭大刀、豪華な馬具類は、新羅や加耶(任那)、さらには朝鮮半島南部において王族級に与えられた威信財と形式上極めて酷似している。著者は、こうした特殊な冠や大刀が、若狭、越前、尾張、美濃、さらには九州や朝鮮半島の勢力にまで及んでいた分布状況を分析し、継体天皇が自らの支持基盤を構築・維持するために、朝鮮半島由来の高度な金属工芸品や渡来技術を威信財として各地の有力豪族に下賜されていた政治的意図を浮き彫りにする。また、河内や山背、若狭に配置された秦氏や膳氏、河内馬飼首といった渡来系集団が、馬匹の飼育や物資の輸送、軍備の強化を通じて、継体政権の経済・軍事基盤を強固に支えていた実態が鮮やかに示される。

そして第六章および第七章において、継体天皇期の最大の政治的事件である五二七年の「磐井の乱」と、百済との外交関係が重厚に追究される。有明海沿岸の雄であった筑紫君磐井が主導した抵抗運動は、単なる地方豪族の反乱ではなく、加耶をめぐるヤマト政権の南加耶出兵方針に対し、新羅との関係を重視する有明海沿岸勢力が結託した国際的政治闘争であったとされる。磐井の乱の平定後、継体政権は百済の武寧王・聖明王との連携を強化し、五経博士(段楊爾や高安茂など)の渡来を受け入れることで、儒教文化や文字による文章行政の導入を飛躍的に進めた。これが後の氏姓制の確立や、帝紀・旧辞の編纂といった古代国家組織の形成へ結実していくのである。

本書の卓越した意義は、第一に、文献史学の厳密な史料批判と考古学の物質資料を高い次元で対話させた実証的アプローチにある。『日本書紀』や『古事記』の説話や系譜に対し、単なる批判や擁護にとどまらず、今城塚古墳の石棺や鴨稲荷古墳の副葬品、さらには韓国全羅南道の前方後円墳などの実体的な考古学データと突き合わせることで、文献の背景にある歴史的事実の輪郭を浮き彫りにしている。

第二に、日本列島内部に閉ざされがちであった従来の古代史像を、東アジアの動態へと解き放った視野の広さである。五世紀末から六世紀初頭にかけての東アジアは、高句麗の強力な南下政策に圧迫された百済や新羅が生き残りをかけて激動し、加耶諸国が混迷を極めた時代であった。継体天皇のご即位や、ご即位後に二十年にわたって大和にお入りになれなかった背景には、国内の豪族対立のみならず、朝鮮半島外交の主導権をめぐる内外の複雑な利害調整が存在していたという指摘は極めて説得力が高い。

第三に、渡来人と技術移転が古代国家の形成において果たした動態的な役割を正当に評価した点である。渡来人を単なる受動的な移住者としてではなく、造船、水運、馬匹飼育、金属加工、そして文字行政といった技術を携え、地方豪族や皇室と主体的に結びついた「歴史の原動力」として捉え直している。

本書は、日本古代国家の成り立ちを東アジア世界の中で俯瞰的に捉え直すための最良の視座を提供してくれる一冊であり、古代史研究者のみならず、日本のルーツとその開かれた歴史構造に関心を持つすべての読者にとって必読の書と言えよう。

水谷千秋著「増補決定版 謎の大王継体天皇」(文春新書)

増補決定版 謎の大王継体天皇 (文春新書)

継体天皇が話題になっていることは昨日の記事で記したとおりである。

rtokunagi.hateblo.jp

本書はそうした継体天皇に関する書籍のうち古典的名著とすべき一冊の増補版であり、ぜひとも昨日紹介した一冊と合わせて読んでいただきたい一冊でもある。

日本の歴史において、皇室という尊い存在は一度も途切れることなく今日まで継承されてきたとされる。しかし古代史を精査するとき、その血統的・政治的連続性が最大の危機に直面し、国家支配の構造そのものが決定的な地殻変動を起こした時代が存在する。それが六世紀初頭、第二十六代として即位された継体天皇の時代である。

近江で生まれ越前という地方で育ち、前代の武烈天皇とは直系の血縁関係がない(あるいは極めて遠い)地方に拠点を置く皇族が、いかにしてヤマト王権の頂点に立ち、新たな皇統の興隆をもたらしたのか。本書は、平成十三(二〇〇一)年に刊行され古代史ブームの先駆けとなった著者の名著『謎の大王 継体天皇』に、最新の研究成果と高島市での講演に基づく増補新章を加えて全面的に再構成した決定版である。著者の水谷千秋氏は古代日本史・東アジア関係史を専門とし、長年にわたって継体王朝論や古代王権論を追究してきた歴史学者である。本書は単なる一人の天皇の生涯を追う伝記にとどまらず、古代日本の国家形成過程とその特質を問い直す壮大な史論として結実している。

本書は、継体天皇の登場に至る前史から、即位後の政治的葛藤、磐井の乱、崩御後の政変、そして後世における継体前例の受容に至るまで、多角的な視野から論を展開している。

まず第一章および第二章では、継体天皇ご出現の歴史的背景が鮮明に提示される。五世紀後半の雄略天皇による強力な専制政治は、葛城氏や吉備氏といった有力豪族の打倒と同時に、皇室内部での激しい流血と粛清を伴うものであった。その結果、雄略天皇の崩御後は仁徳系の男系子孫が急激に途絶え、武烈天皇の崩御によってヤマト王権は皇統断絶という致命的な政治危機に瀕することとなった。飯豊青皇女による過渡的な臨朝など、皇位継承が著しく揺らぐなかで白羽の矢が立てられたのが、近江・越前に拠点を有する男大跡王、のちの継体天皇であった。

第三章と第四章は、本書の核心である継体天皇の出自と大和定着への足跡の解明にあてられている。『古事記』や『日本書紀』は継体天皇を「応神天皇五世孫」と記すが、著者は鎌倉時代まで伝存していた古史料『上宮記』逸文を精密に検証し、父系の系譜のみならず、母方の三尾氏や息長氏、さらには坂田氏や尾張氏といった近江・北陸・東海地方の有力豪族との重層的な血縁・婚姻関係を強調する。継体天皇は大和に入京するまでに河内や山背の宮を転々とし、実に二十年もの歳月を費やした。これは大和の既存勢力との政治的調整のみならず、仁徳系の血を引く手白香皇女との婚姻によって即位の正統性を確固たるものとし、中央・地方の豪族勢力を結集するための周到な準備過程であったことが論証される。

第五章では、継体天皇の治世晩年に勃発した磐井の乱が取り上げられる。筑紫の首長・磐井によるこの反乱は、朝鮮半島の緊張した国際情勢(新羅・百済との外交)と連動した単なる地方豪族の抵抗にとどまらず、有明海沿岸の首長連合とヤマト王権との政治的決戦であったとされる。乱の鎮圧後、ヤマト王権は九州に「那津官家」や「屯倉」を設置し、地方に対する直接支配を飛躍的に強化していった。

第六章および終章では、継体天皇崩御後の政変(辛亥の変)と「二朝並立論」が慎重に再検討される。安閑・宣化・欽明天皇の即位をめぐる政治的混乱を経て、治罰権の一元化とともに、大伴氏・物部氏・蘇我氏ら有力中央豪族の合議に基づく政治体制が確立され、これが後の律令国家の骨格をなしたプロセスが明かされる。また、後世の後鳥羽天皇や南北朝期の光厳天皇の即位に際し、直系血統を欠く状況を打開する典拠として「継体前例」が参照された歴史的展開にも論及している。

さらに増補新章では、百済の王統譜(『宋書』『梁書』)における非血縁的・兄弟継承の事例や、阿蘇ピンク石(馬門石)の流通史、北陸・近江集団の実力など、最新の知見が追加され論旨の説得力を高めている。

本書が古代史研究ならびに読者層に与えた学術的達成は、以下の三点に要約することができる。

第一に、徹底した史料批判と『上宮記』の再評価による系譜研究の刷新である。『古事記』や『日本書紀』という八世紀の官撰史書が創出した「一系正統」の物語を無批判に受け入れるのではなく、古代の断簡史料である『上宮記』逸文の記述を慎重に解読することで、記紀編纂以前に存在した原初的な血統伝承と地方豪族ネットワークの実態を浮き彫りにした。継体天皇が「応神五世孫」という遠く離れた血縁にありながら即位できた背景に、母方・后妃方の広範な豪族連合の支持があったとする分析はすこぶる明快である。

第二に、「血統原理」から「実力・合議原理」への構造転換の示唆である。従来の古代史研究においては、天皇個人の血統的真偽や新旧王朝交替の是非といった点に議論が集中しがちであった。これに対し著者は、継体天皇の即位とそれに続く政治過程を、仁徳系皇統から、中央有力豪族の合議に基づく組織的な統治システムへの移行期として捉え直した。すなわち、継体天皇のご出現は突発的なクーデターではなく、日本の古代国家が血縁的部族連合から組織的な国家体制へと成熟するための必然的な模索であったと位置づけるのである。

第三に、文献史学と考古学成果の鮮やかな融合である。継体天皇の真陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)の造営や、福岡県岩戸山古墳の構造、さらに熊本県産の阿蘇ピンク石(馬門石)を用いた石棺の広域流通など、最新の考古学的知見を文献記述と対比させることで、六世紀の東アジア情勢と地域社会の政治的動向を生々しく描き出している。

神話や伝承を踏まえると紀元前六百六十年から、確実に存在が確認できる時代以降に限定したとしても、少なくとも千五百年以上に亘って皇室が日本国で脈々と続いているのはなぜか。この根本的な問いに対し、本書が導き出す結論は極めて示唆的である。古代日本において皇位継承が空前の危機に直面した際、大和の政治主体は硬直した観念に囚われることなく、地方から実力とネットワークを備えた皇統の指導者を迎え入れ、婚姻と合議制という柔軟な政治的仕掛けによって国家の危機を乗り越えた。この柔軟性と皇統を戴く知恵こそが、日本の皇室を途切れることなく持続せしめた最大の要因であったと言えよう。

河内春人著「継体天皇:六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」」(中公新書)

継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」 (中公新書)

今朝の朝日新聞にも広告が大々的に掲載されていた話題の書である。関連書籍が再版され、電子書籍でも売り上げを伸ばしているほどの盛況ぶりだ。しかし、「継体天皇」という名が一般にどれほど知られているかとなると、やや心許ない。教科書を紐解いても、中学段階では名前が記される程度であり、高校以上でようやく先代の武烈天皇との間の皇統断絶説に触れられるかどうか、という存在感にとどまる。

だが、日本の古代国家形成史において、5世紀から6世紀への移行期は皇室の構造が根本的に変容した極めて重要な転換点である。そして、この激動の時代に彗星のごとく登場したのが継体天皇にほかならない。

従来、継体天皇をめぐっては、越前や近江といった地方から起ち上がって大和入りを果たした経緯から、水野祐氏らに代表される「新王朝の創始者(王朝交代論)」とする見解と、神武天皇以来の血統を引く正統な継承者とする見解などが激しく対立してきた。また、『古事記』や『日本書紀』といった後代の官撰史書に記された即位・治世の伝承には、中国史籍(『史記』や『漢書』など)の文章構想やレトリックが流用されており、どこまでが史実でどこからが後世の文飾なのかという史料批判上の難題が常に横たわっていた。

本書はこうした長年の論争に対し、文献史学・考古学・造営学、そして東アジア情勢という多角的なアプローチを統合することで、実証的かつ明快な解答を提示した一冊である。

書名こそ『継体天皇』と冠されているが、対象はそれにとどまらない。5世紀後半の「倭の五王」時代の終焉から、雄略天皇崩御後の皇位継承の混迷、そして継体天皇の台頭に至る政治過程を鮮やかに描き出している。5世紀末、皇室の直系男子が次々と途絶えるなかで、有力豪族集団は皇位継承に強い影響力を及ぼすようになっていった。

そうしたなかで浮上したのが、父を彦主人王、母を振姫とし、越前・近江のネットワーク(北陸集団)に根を張る男大迹王――のちの継体天皇であった。著者は『上宮記』逸文をはじめとする系譜史料や隅田八幡神社人物画像鏡の銘文などを精査し、継体天皇の血縁的背景と、若狭・近江・越前を結ぶ水運および地域豪族との強固な結びつきを解き明かしていく。

特に圧巻なのは、継体天皇が即位後にただちに大和(奈良盆地)の中心部に入らず、樟葉宮(枚方市)、筒城宮(京田辺市)、弟国宮(長岡京市)と周辺地域を段階的に転々とし、即位から20年を経てようやく磐余玉穂宮(桜井市)に入ったとされる伝承の分析である。著者は、中国史籍『史記』の「文帝即位説話」との比較を通じて『日本書紀』の編纂意図を明かすとともに、実際の地理的動向としては、葛城氏や物部氏、大伴氏といった有力豪族勢力との均衡を図りながら政治的基盤を徐々に固めていった実態を捉えている。

また、先代の武烈天皇の姉妹である手白香皇女との婚姻は、前朝の正統性を継承するための決定的な政治的装置であった。これに加え、尾張氏や三尾氏など各地の有力豪族から妃を迎えた多角的な婚姻政策は、ヤマト政権を全列島的な豪族連合体へと再編・拡張する基盤となった。

さらに詳しく論じられるのは、6世紀前半の激動する東アジア情勢と、それに連動して勃発した内乱の構造である。当時、朝鮮半島では百済・新羅が勢力を拡大し、加羅(任那)諸国の生存が脅かされていた。

継体朝は百済との緊密な連携を模索し、「任那四県割譲」にみられる外交政策を展開するとともに、朝鮮半島へ外交使節や軍勢を派遣しようとした。この過程で発生したのが、527年から528年にかけて北九州を揺るがした「磐井の乱」である。本書は『日本書紀』『古事記』『筑後国風土記』などの史料記述の相違を丁寧に検証し、磐井の乱を単なる「中央に対する地方の叛乱」としてではなく、新羅との独自の外交・貿易ネットワークを保持していた九州の地域首長勢力と、朝鮮半島への軍事介入を強行しようとするヤマト政権との政治的衝突として位置づけている。政権側は物部麁鹿火らを派遣して磐井を討ち、九州各地に屯倉(みやけ)を設置することで、対外外交権と地域支配の主導権を朝廷へ一元化することに成功した。この内乱の鎮圧こそが、古代国家における中央集権的支配の決定的な足がかりとなったのである。

終章および補論において、著者は継体天皇の崩御と、その事績が古代ヤマト政権の遺産としてどのように結実したかを論じる。継体天皇の崩御年をめぐっては、『日本書紀』と『百済本記』の異説から派生した「辛亥の変(531年)」や、安閑・宣化・欽明天皇への皇位継承をめぐる政治的葛藤が長年議論されてきた。著者はこれらの史料を冷徹に批判し、急進的な正統性主張の裏にあった政権内部の力学を描き出す。

ここで特筆すべきは、大阪府高槻市に位置する今城塚古墳に関する考古学的・造営学的解析である。今城塚古墳は、その規模や構造、そして精密に区分された公的・私的な埴輪祭祀空間(家形・人物形・動物形埴輪群)の出土から、継体天皇の真陵であることが確実視されている。著者は、この大規模な墳丘と前代未聞の埴輪群像の配置が、継体天皇の権威を可視化し、崩御後の追悼・継承儀礼を創出するための国家的な政治的プロパガンダであったことを明確に示す。

そして、この継体朝において創始された最大の「遺産」こそが、系譜をまとめた『帝紀』の編纂と、直系世襲皇位の形成であるとする。継体天皇は、自らの即位の正統性を主張するために応神天皇にまで遡る系譜を整理・創出するとともに、大兄制や后妃の身分制を整え、皇位が特定の血統によってのみ継承される仕組みの礎を築いたのである。

齋藤孝著「頭のいい人の独学術:学習効果が高まる 自学自習の極意26」(ポプラ新書)

頭のいい人の独学術 (ポプラ新書)

現代社会において、私たちは指一本で膨大な情報にアクセスできる。

しかし、著者は本書において警鐘を鳴らす。ネット上の「情報の御馳走」を流し読みすることは、単なる「消費行動」にすぎず、思考の深まりも知的成長も生まないと訴えているのだ。

情報の洪水を前に、私たちはむしろ「思考停止状態」に陥る危機に瀕しているとし、このような情報過多の時代だからこそ、自ら問いを立てて本質を見極める「独学=自学自習」が必要となるというのが著者の主張である。

著者が定義する「頭のいい人」とは、学歴や偏差値ではなく、情報を知識として定着させて本質を自ら掴み、思考を深められる人を指す。本書は、真の独学者になるための具体的な技術と、学ぶことの根本的な喜びを明快に提示している。

独学の出発点として著者が強調するのは、学びに対する構えと意欲である。

著者はここで、『論語』の「不憤不啓、不悱不発(憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず)」を引く。学ぶ側に発憤するほどの強い問題意識と悶え悩むような主体的姿勢がなければ、いかに優れた先達であっても教え導くことはできない。独学は孤独な作業と思われがちだが、著者は「独学は孤独ではない」と主張する。読書は、時空を超えて著者と一対一で対話する時間であるとし、バルザックの『ゴリオ爺さん』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』、あるいは「芭蕉全句集」をポケットに忍ばせる「ウィズ芭蕉」の感覚は、読書が豊かな精神の伴侶をもたらすことを教えてくれる。

さらに、独学に必要なのは、地頭の良さではなく根気である。その好例として、慶應義塾大学通信教育課程での指導経験が挙げられる。直接の指導が限られる中にあって不合格レポートを何度も書き直して卒業を勝ち取る人々は、まさに「独学のプロ」である。独学の成否を分けるのは能力差ではなく、この淡々と継続する粘り強さなのだ。

挫折を防ぐため、著者は「初速学習法」を提案する。人間がもっとも意欲的になるのは興味を持った瞬間であり、その熱量は遅くとも2週間後には冷めてしまう。だからこそ、知りたいと思った瞬間にすぐネットで調べ尽くし、関連書を買ってざっと目を通すなど、ポイントを人に説明できる状態まで一気に持っていく。著者はこれを「釣りたての魚をすぐに三枚下ろしにして干しておく」ように、知の鮮度が高いうちに処理して定着させるのである。

スケジュール管理は「2週間単位」のペース配分が効果的だとしている。2週間であれば集中でき、一定の成果を出せる。著者はこれを「勝手に宣言方式」と呼び、目標を他者に宣言してブログ等にアウトプットすることで習慣化を促している。日常生活のスキマ時間を最大活用することも欠かせない。30分の隙があればカフェで集中する「30分1本勝負」や、お風呂等で一度読んで閉じて思い出し、また開いて確認する「再生方式」による暗記が推奨される。

記憶を定着させる上で、著者が紹介するのが東大生の「ペンキ上塗り式」勉強法である。最初から完璧を目指さず、細かい取りこぼしを気にせず、大きなハケを使って全体を薄くザッと塗り、戻ってはまた薄く塗り重ねる。エビングハウスの忘却曲線に基づき、翌日に前日の分を上塗りするように復習を繰り返すことで、記憶は強固に定着する。

さらに、手を動かす重要性を説き、殴り書きメモによる脳のアクティブ化や、構造化された美的なノート作りの価値を述べる。この「手を動かす学び」の究極形が、偉人たちが実践した「書き写し勉強法」である。南方熊楠の『和漢三才図会』筆写、福澤諭吉の『築城書』筆写、本多静六の「エキス勉強法」「行読法」、そして本居宣長が35年をかけた『古事記伝』など、先達の勉強法は、独学が全身を使った動的な探究活動であることを物語っている。

学びを継続させる最大の秘訣は、とにかく楽しむことである。著者は、独学をエンターテインメントに昇華させる多様なアプローチを提案する。『呪術廻戦』などのマンガから歴史を深掘りし、知識を「図解・イラスト化」し、古典を題材にしたコントを演じる「論語祭り」を試みるなど、受動的な学習を能動的な創造力へと移行させる手段が並ぶ。自分の好きなものを全て書き出して蜘蛛の巣のように繋ぐ「偏愛マップ」も、個人ワールドを構築する大きな喜びを教えてくれる。

アウトプットの重要性に関して、著者は「学んだ直後に15〜30秒で話す」訓練を推奨する。他人の話に興味を維持できる限界は30秒程度であり、15秒で一言プレゼンする「桐島方式」や、最後を「知らんけど」で締めくくる「知らんけど方式」によって、オチを気にせず気楽に発信する工夫を提案する。SNS等で、機械のように淡々と毎日発信し続けることもサイクルを循環させる秘訣である。

さらに、独学は個人のキャリアを上げる推進力ともなる。本書では、人生のステージを上げる「4つの独学パターン」が語られている。その4つの独学パターンとは以下の通りである。

  • 【人のリクエストに応える独学】:著者は『声に出して読みたい日本語』がヒットした後、日本語研究、NHKの番組指導、田中角栄や医師のコミュニケーションに関する執筆依頼など、舞い込むリクエストに対して勉強を重ね、領域を広げてきた。意図せぬリクエストは新たな能力を開花させるチャンスとなる。
  • 【「代理力」と「見よう見まね」】:鉄鋼王カーネギーが代理で役目を引き受けてステップアップしたように、あるいはイラン人の友人ビリーさんがサラダ作りを「見よう見まね」で覚えて時給を上げたように、他者の技を観察し体得する重要性を裏付けている。
  • 【勉強と趣味の一体化】:ビートたけしがピアノ、所ジョージが根付を徹底的に調べ、黒柳徹子が『徹子の部屋』の前に周到に準備する様子は、成功者たちが「勉強を勉強と思わず楽しんでいる」ことを物語る。
  • 【魂を込めて本を1冊書く】:本を書くことは、自らの魂を原稿に投げ込むようなプロセスであり、最高の自己形成の機会となる。

本書の後半では、世界史、日本史、文学、政治経済、自然科学、数学、宗教、心理学、美術・芸術、哲学・思想という「一生ものの教養10テーマ」が提示される。

著者は、これらの教養を知ることで、世界の事象をより立体的に捉えられるようになると説く。日本史で歴史的な決断を追体験し、政治経済では渋沢栄一の『論語と算盤』から倫理ある資本主義の原点を学ぶ。さらに、自然科学や数学のデカルト座標や関数などの関係性に気づく感動は、世界の調和を五感で楽しむ契機となる。

宗教や心理学は不安を乗り越える契機となる。仏教の色即是空から執着の排除を学び、正常性バイアスやピグマリオン効果などの心理学を学ぶことは人間関係を豊かにする実践的な知識となる。

さらに著言が強調するのは、教養が自己肯定感の向上へ直結する点である。まず素晴らしい価値のある世界を肯定することで、その世界に生きる自分自身をも肯定できるようになるという順序を提唱し、これはハイデガーが世界内存在として定義した考え方にも重なる。世界の偉大な知恵や、美術の美の体験に触れ、この世界がどれほど豊かで驚きに満ちているかを学ぶことこそが、自己肯定感を支える礎となるのだ。

「古典はオワコンである」という極端な言説に対しても著者は毅然と反論する。時を超えて残る古典にはインターネットの刹那的な情報よりも遥かに高い価値がある。古典の読解は一見ハードルが高く感じられるが、解説本を「浮き輪」にしながら一冊を読み切ることで、「やればできる」という確固たる自信を獲得するきっかけとなる。

本書の最後で語られるエピソードは、私たちの胸に深く迫る。18歳で失聴し全盲ろうとなったが、指点字を用いて本を貪り読み、言葉を紡ぎ出した東大教授の福島智氏や、交通事故で全ての記憶、感覚を失いながら、草木染職人として自立するまで世界のすべてを学び直した坪倉優介氏の生き様は、人間に備わった「学ぶ能力」と「情熱を注ぐ能力」が、いかなる過酷な状況であっても決して失われないものであることを証明している。学ぶこと、情熱を注ぐこと、それ自体が人間が生きていることの証明なのだ。

スマホをスクロールするだけの高速検索社会は、私たちの考える力を徐々に奪う。だからこそ、能動的に本を開き、知識を蜘蛛の巣のように繋ぐ「独学」が必要なのである。