いささめに読書記録をひとしずく

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

大木毅著「歴史・戦史・現代史:実証主義に依拠して」(角川新書)

歴史・戦史・現代史 実証主義に依拠して (角川新書)

2022年2月24日木曜日、ロシアのウクライナ侵略が始まった。

侵略は早々に終結し、首都キーウ――当時はキエフという人が多かった――は陥落して、元コメディアンの大統領は国外脱出するであろうというのが多くの人の予想であった。

その予想は外れた。元コメディアンの大統領はキーウに留まった。

それだけでなく前線にも顔を出し、ロシアはウクライナを制圧するどころかウクライナの抵抗の前に太刀打ちできなくなり、今や逆にモスクワにウクライナのドローンが飛び交う時代になっている。

誰がこの情勢を予想したであろうか。

本書は岩波新書として観光され話題となった「独ソ戦:絶滅戦争の惨禍」の著者でもある大木毅氏の著作である。混迷を極める現代において、理性と史実を武器にいかに俗説の狂騒に抗うかを示す、静かなる、しかし力強い宣言書である。本書は、現在進行中のロシアによるウクライナ侵略戦争から、第二次世界大戦、さらには旧日本軍の組織論に至るまで、多岐にわたるトピックを実証主義という一本の糸で繋ぎ合わせている一冊である。

本書は2023年7月刊行の一冊である。すなわち、ロシアが侵略を始めてから1年半という時点で世に送り出された本書は、2023年時点のウクライナ侵略戦争の考察として最も詳しく、わかりやすいものがある。著者自身は安全保障の専門家ではなく第二次世界大戦を専門とする歴史家であることを強調しつつも、戦史研究で培った軍事的合理性の視点からロシア軍の失敗を冷徹に解剖しているのである。その上で、ロシア軍の最大の誤算として、開戦直後に重点を形成しないまま多正面から同時に押し込むという、非合理的な作戦計画を挙げている。著者は本書において、軍事の常識で従えば、敵の防空システムを無力化した上で航空優勢を確保して戦力を集中させるべきであるのに、ロシア軍がそれを怠ったと指摘するのだ。これは、ウクライナ軍の抵抗を軽視し、短期間でのゼレンスキー政権崩壊を信じ込んだプーチン政権の政治的思い込みが、軍事的な合理性を圧倒してしまった結果に他ならない。

さらにロシアのウクライナ侵略は、ロシアとウクライナの社会システム全体のレジリエンスを試す負荷試験として捉えることができるとしている。近代戦とは、単なる前線の兵火のやり取りではなく、国家の経済力、技術力、そして国民の意志といった総体的な能力を試す場となっているのだ。著者は、ウクライナがこの試験に合格するか否かが、戦後日本の国際秩序にも重大な影響を及ぼすと警告し、われわれ自由主義諸国もまた、ウクライナを支援し続けることでこの負荷試験に参加しているのだと説く。

そのあとで著者は専門とする独ソ戦の知見を本書で述べている。現代の戦争を理解する上での強力な補助線であり、独ソ戦における絶滅戦争の論理や、イデオロギーが軍事的判断を歪める過程は、現代のロシアが「ネオナチ」からの解放という虚偽の物語を掲げて侵略を正当化しようとする姿と不気味に重なり合う。

ここで著者が一貫して批判の矛先を向けているのが歴史修正主義である。それは、単なる新事実の発見による歴史の書き換えではなく、政治的・情緒的な動機に基づいて、都合の悪い史実を無視したり、恣意的に解釈したりする行為を指す。趣味の歴史修正主義が跳梁跋扈する現状は、現代のウクライナ戦争を巡る情報の濁流においても、われわれが陥りやすい罠であると注意を促している。

本書を通じて流れる根底のメッセージは、軍事・戦争はファンタジーではない、という一点に集約される。戦史や軍事学を、単なる兵器のスペック比較や格好良い作戦の物語として消費するのではなく、そこにある物理的な制約、兵站の苦労、そして人間の血が流れるという現実を直視しなければならない。

その延長線上で著者は、コロナ禍における「戦争」というアナロジーの安易な使用を戒める。軍事用語を安易に社会現象に当てはめることは、事態の本質を誤認させ、非合理的な精神論へと国民を誘導する危険性を孕んでいるからである。歴史家として実証主義を貫く著者の姿勢は、こうした言葉のインフレに対する強力な防波堤となっている。

本書は、単なる知識の提供にとどまらず、歴史とどのように向き合うかという姿勢そのものを問いかけてくる。ウクライナで砲声が響き、情報の狂騒が渦巻く現在、我々に必要なのは、安易な物語に逃げ込むことではなく、大木氏が示すような冷徹な理性と史実への謙虚さを持って現実を直視することなのである。

 

川越敏司著「マーケット・デザイン:オークションとマッチングの経済学」(講談社選書メチエ)

マーケット・デザイン オークションとマッチングの経済学 (講談社選書メチエ)

今週の週刊少年ジャンプ、そして、先週末のジャンプコミックスの発売に騒動が起こった。

ジャンプコミックスで言うと、集英社の夏フェア「ナツコミ2026」で配布された描き下ろしメタキラカード(全22種)が転売ヤーの大量買い占め対象になり、開始前からフリマ出品が急増して、書店で警察沙汰まで発生した。特にルフィカードは単品5000〜9000円で取引され、200枚セットが155万円で落札された例も存在した。

coki.jp

また、週刊少年ジャンプ33号は「ONE PIECEカードゲーム」特別限定カードが付録として封入され、発売前からフリマサイトで高額転売が続出し、書店では予約殺到、抽選販売にまで発展した。

www.sponichi.co.jp

www.jprime.jp

今回の騒動の是非はともかく、市場メカニズムの機能を分析するだけでなく、望ましい成果を得るために市場のルールそのものを一から設計し、あるいは既存の不完全な制度を修理することを考えるとき、本書はその一つの回を示している一冊であると言える。

著者はプロローグにおいて、2012年のノーベル経済学賞がロイド・シャプレーとアルビン・ロスに授与されたことに触れ、この分野の重要性を強調している。価格メカニズムがうまく機能しない状況において、いかにして安定的なマッチングや効率的な配分を実現するかという極めて実効性の高いものであり。本書は、工学としての経済学がいかに社会をより良くし得るか、その具体例を描き出している。

本書はまず。市場メカニズムの基礎とゲーム理論による分析を提供する。アダム・スミスからハイエクに至る見えざる手の議論を振り返りつつ、情報の分散や戦略的行動が市場にどのような影響を与えるかを整理し、コアという概念を通じて、誰もが不満を持たず、提携を組み替える誘因がない状態がいかに重要であるかを説いている。

そして本書はオークション理論を分析する。ヤフオクのような自動入札から、ウィリアム・ヴィックリーが提唱した二価格オークション(ヴィックリー・オークション)にいたるまで、オークション理論のメカニズムと戦略性が詳述する。特に、自分の評価額を正直に入札することが最適戦略となる耐戦略性という概念は、マーケット・デザインにおける制度設計の軸として明快に解説している。

その上で、マッチング理論を説明している。研修医のマッチングや学校選択制、さらにはカップリング・パーティーといった身近な例から、ゲール=シャプレー(受入保留方式)アルゴリズムの有効性が実証的に示される。金銭の授受を伴わない状況下で、いかにして安定性を確保し、非効率な駆け落ちを防ぐかという議論は、現代社会における制度設計の難しさを示している。

そこにあるのは理論的な美しさを語るだけでなく、実験経済学の知見に基づいた現実との格闘である。著者は実験経済学の専門家であり、理論が予言する通りの結果が実験室――あるいは現実の世界――で得られない場合、何が原因で、どのように制度を修正すべきかを問いかける。たとえば、収益同等定理が示すオークションの同等性が現実には崩れる理由や、二価格オークションが理論上の優位性にもかかわらず普及しにくい背景についての議論は現場感覚に基づいた分析である。

理論を絶対視せず、人間の認知バイアスや社会的な制約を考慮に入れた修正されたデザインこそが、実社会で役立つ工学としての経済学であるという主張は非常に説得力がある。本書で紹介される事例は、Googleの検索広告オークションから、アメリカの周波数オークション、日本の研修医マッチング制度まで多岐に亘っており、これらは今に生きる我々の日常の背後で、経済学の緻密な設計がいかに効率性と公平性を支えているかを物語っていると言えよう。特に、学校選択制におけるボストン方式と受入保留方式の比較検討などは、政策決定に関わる人々にとっても極めて示唆に富む内容であり、そこには単に自由競争を促すのではなく、参加者が嘘をつく必要がなく、かつ安定した結果が得られるルールを設計することの重要性が存在する。

 

大久保潤&篠原章著「沖縄の不都合な真実」(新潮新書)

沖縄の不都合な真実(新潮新書)

沖縄に修学旅行に来ていた女子高校生がテロリストの転覆事故に巻き込まれて殺されたのが今年の3月16日。殺した当事者である船長は未だに逮捕されずにいるという奇妙な構図が続いている。

いったい何が起こっているのか?

実はこの闇に、今から10年以上前に切り込んだ本があるのだ。

それが本書である。

沖縄に対して抱く「平和の島」や「癒やしのリゾート」という美化された沖縄像に対し、極めて冷徹な経済と利権の視点からメスを入れているのだ。

本書の核心にあるのは、沖縄基地問題の本質が、平和運動や安全保障の議論を超えた「カネと利権」の構造にあるという指摘である。そもそも普天間基地の移設を巡る混迷そのものが、政府と県が振興予算という莫大な資金を引き出し合うための「エンドレスゲーム」であり「茶番劇」であるというのだ。

今回の殺害事件のような悲劇が起きたとき、世論の多くはどうしてこの殺人事件を防げなかったのかという管理責任を問う。しかし、本書を読み解くと、沖縄という地が抱える依存体質と無責任の構造が、社会のあらゆる局面に影を落としていることが理解できるはずだ。著者たちは、沖縄を基地の被害者という聖域の中に閉じ込めることが、結果として県内エリート層(=官)による民間(=民)の支配と自立心の喪失を招いていると厳しく批判しているのである。

特に鋭いのは、沖縄内部に存在する深刻な階級社会への言及である。振興策の恩恵が一部の大企業やエリート公務員にのみ行き渡り、一般県民の所得は全国最低レベルに放置されている現実を描き出し、沖縄のメディアや知識人が沖縄県内の全ての不条理を基地の重圧や本土による差別に置き換えることで、沖縄内部の統治不全や格差から目を逸らさせていると指摘しているのである。

同時に本書では、テロリストどもが訴える「基地がなくなれば豊かになる」という言質を「神話」であると切り捨てる。基地返還による経済波及効果の試算に含まれる計算上の欠陥を暴き不都合な真実を提示している。

今回の殺人事件のような非日常の悲劇を経験するたびに、沖縄を特別な場所として同情し、あるいは消費する。しかし、本書が告発するのは、そうした本土がつくった沖縄へのイメージそのものの罪深さである。大江健三郎氏ら本土の知識人が振りまいた犠牲者としての沖縄という物語が、沖縄自身の自己決定権や責任能力を奪ってきたのではないか、と著者たちは問いかける。

著者の篠原氏は、沖縄が抱える病巣を麻薬のような振興金への依存であると表現している。問題の解決を阻んでいるのは、実はこの膠着状態から利益を得ている支配階級であり、彼らは県民の総意という言葉を使って異論を封殺しているのだ。

沖縄をイデオロギーの戦場として見るのではなく、都道府県の数である四十七分の一の日本であり、普通の日本人が住む土地と考え、時に理不尽な格差や不透明な統治に苦しむ現実の地方社会として直視することを求めている。不都合な真実から目を背け、情緒的な議論に終始する限り、沖縄の真の自立も、そこに暮らす人々や訪れる人々の安全を守る責任ある社会の構築も、遠い夢のままだというのが本書の主張である。

 

小野圭司著「日本戦争経済史:戦費、通貨金融政策、国際比較」(日本経済新聞出版)

日本 戦争経済史 戦費、通貨金融政策、国際比較 (日本経済新聞出版)

私は平安時代叢書第八集「天暦之治」において、藤原実頼(昌泰3(900)-天禄元(970))を評してこのように書いた。

 実頼は、区分するとすれば平和主義者である。ただし、闇雲に平和を主張するのでなく、そのほうが得だと考える冷めた平和主義者である。平和というのは、高尚な理念で考えるから素晴らしいものという概念になるのであって、経済で考えればより儲けやすい環境というだけである。何が儲かると言って、戦争をしないことほど儲かるものはない。
 実頼は、「正義」だとか「向上するはず」だとかいう考えを捨て、争いの芽を積むことに専念した。そして、向上するための必要な現実の情報を募った。それも庶民自身から。

ameblo.jp

戦争をしないことは儲かることだという考えに従えば、戦争は儲からないとなる。では、具体的にどのように儲からないのか? あるいは、戦争が儲からないという考えた正しいのか?

その答えが本書にある。

本書は、明治維新から第二次世界大戦終結に至るまでの近代日本が経験した各戦争を戦費という切り口から一貫した理論的枠組みで分析した論考である。従来の戦争史研究において、兵器(モノ)や動員(ヒト)に比べて語られることの少なかった戦費(カネ)と、それを支える通貨金融政策に焦点を当て、膨大な統計データに基づいた国際比較を通じて、近代日本の歩みを経済的側面から鮮きだしているのである。

本書の最大の特徴は、マクロ経済学的な国民所得勘定の視点を導入している点にある。著者は戦争を政府による大規模な消費活動と定義し、一国が生産した付加価値、すなわち、GDPやGNPの中からいかにして戦費を捻出したのかを数式を用いて理論的に整理している。

戦費の調達手段を大きく分けると、増税、公債、通貨発行、そして現地通貨借入などに分類されるが、これらが国民の消費や投資、あるいは将来の生産性にどのような影響を及ぼしたのか? この点を本書は単なる歴史的事実の羅列に留まらず、各戦争における金融政策の変遷を進化の過程として捉えている。

まず、戊辰戦争から西南戦争にかけての初期段階では、近代的な金融市場や債券市場が未発達であったため、政府は太政官札などの不換紙幣の発行という前近代的な手法に頼らざるを得なかった。

続く日清戦争において、日本が本格的な立憲国家として議会の協賛を得て戦費を調達するという、戦時通貨金融政策の原型が成立する。そして、日清戦争での戦勝で獲得した巨額の賠償金が、その後の金本位制導入と軍拡を支える基盤となった。

その10年後の日露戦争において、日本の戦時金融政策は一つの完成形に到達する。当時の日本の経済力を遥かに超える戦費を、高橋是清による巧みな外債発行と、金本位制を維持しつつ銀行制度を駆使した国内消化によって賄ったのである。ただし、日露戦争においては敗戦国ロシアから賠償金を取ることができなかった。これが日本経済にとって大きな足枷となる。

大正時代に入って第一次世界大戦からシベリア出兵を経験した後、昭和に入ると玉音放送に至るまでの長い戦争の時代を迎え、時間経過とともに戦争の規模は国民経済全体を飲み込む総力戦へと変貌していく。第二次世界大戦時、日本は占領地に設立した日系銀行を通じて現地通貨借入金を膨らませ、インフレを伴いながら戦費を賄うという限界的な状況に追い込まれていったのである。

これを他国と比較するとどうなるか?

この点において本書は国際比較視点を提供している。たとえば日露戦争時、日本の経済規模はロシアの四分の一以下であったにもかかわらず、GDPに対する戦費の比率は22%に達し、ロシアの7%を大きく上回る負担を強いていました。これは、日本がいかに国力の限界を攻める背伸びをした状態で近代を駆け抜けてきたかを象徴していると言える。しかも、この数値はこのあとの戦争に比べるとまだマシな数字だったのだ。

さらに著者は、戦費の定義についても詳細な検討を加えており、軍の運用経費だけでなく、終戦後の復員費用や戦後処理費用までを含めた広義の戦費を定量的に捉え直している。これにより、戦争が単なる一過性の出来事ではなく、長期にわたって国家財政を拘束し続ける構造的な要因であったことが示される。

その結果、本書は残酷な現実を導き出す。経済力こそが戦勝を左右するという冷徹な現実である。近代化の遅れを取り戻すべく急速に進められた金融制度の整備が、いかに戦争と密接に関わり、時には国家を支え、時には破局へと導いたという現実があり、そして、その現実の前に日本は敗れ去ったのだ。

結論、戦争は儲からない。

 

今尾恵介著「地図バカ:地図好きの地図好きによる地図好きのための本」(中公新書ラクレ801)

地図バカ 地図好きの地図好きによる地図好きのための本 (中公新書ラクレ)

「~バカ」というのは、本来であれば侮蔑語であり、言われた側は憤りを示す語であるはずだが、ときに褒め言葉になり、自称で用いる場合は最大級の誇りを生む語となる。単数形ではなく複数形として用いるならば、最大級の誇りと結束を生む語にもなる。

本書はまさに、最大級の誇りと結束を示す語をタイトルとし、その中身もタイトル通りの一冊である。地図という深遠な世界に魅了された人々の情熱と、地図が持つ多面的な魅力を描き出しているのだ。

著者は、地図を単なる目的地へのガイドとしてではなく、歴史、文化、そして人間の想像力が結晶した知の宝庫として捉えている。本書を読み進めるうちに、著者の圧倒的な熱量に引き込まれ日常で見慣れているはずの地図が全く異なる相貌を持って立ち上がってくる。

本書は、著者の個人的な原体験から始まり、地図制作に命を捧げた先人たちへのオマージュ、珍奇なコレクションの紹介、そして地図が映し出す社会の変遷へと多岐にわたる。

冒頭で語られる著者の原体験は、まさに「地図バカ」の面目躍如である。中学時代に鉛筆で描き上げたという架空都市の地形図は、等高線から市街地の構成、さらには鉄道のダイヤグラムまで設定された驚異的な完成度を誇る。実在しない街に命を吹き込むその行為は、地図が単なる現実の写し鏡ではなく、一つの宇宙を創造するツールであることを示している。

また、バングラデシュから届いた地図の梱包が切手で埋め尽くされていたエピソードや、そこに記された「63360分の1」という英領時代の歴史を物語る縮尺についての考察は、地図の背後に潜む国家の歴史や政治的背景を鋭く突いている。

著者が敬愛する地図の先人たちの描写も圧巻である。大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師である吉田初三郎が大胆なデフォルメを駆使して観光の夢を可視化した――富士山の向こうに朝鮮半島やハワイまでも描き込んだ――仕事や、たった一人で日本全土の地名を網羅する巨大な辞書を編纂した吉田東伍の執念の――何しろ、原稿を積み上げれば5メートルに及んだ――仕事、これらのエピソードは、地図が人の手によって、いかに熱狂的に、かつ精緻に作られてきたかを伝えている。

また、本書の面白さは、本書で言うところの「お宝地図」の紹介にもある。

たとえば上図は本書掲載の図版であるが、これは一見すると海図に思えてしまう。だが、よく見るとこれはまぎれもない地図である。紙の上に、東西0.4ミリ、南北0.3ミリの陸地が存在するのだ。この嬬婦岩(そうふがん)しか存在せず、残りの画面がすべて海という地図を描き出したのだ。

さらに、新幹線の運転士が携行する全長10.3メートルにも及ぶ「縦断面図」の紹介では、路線の勾配やトンネルの位置がミリ単位の精度で管理されている鉄道運行の舞台裏を垣間見せてくれる。

さらに、地図は作成時点の現実を映し出すが、時間経過とともに地図は歴史資料となる。本書後半では、地図が時間の経過とともに失われていく風景を記録する記憶の装置としての側面が強調される。かつて炭鉱で栄えながらも現在はダムの底に沈んだ北海道の夕張の街の変遷を新旧の地形図で比較する箇所は、読む者に深い哀愁を感じさせる。また、1854年のロンドンでコレラの感染源を突き止めるために医師ジョン・スロウが作成した地図の例は、情報の可視化がいかに人命を救い、社会を変える力を持つかを証明している。

一方で著者は、デジタル地図やGoogleマップの利便性を否定はしないが、それらがもたらす効率性の影で失われるものに対しても警鐘を鳴らしている。目的地へ最短距離で導くナビゲーションは、途中で迷い、地形の起伏を感じ、その土地の歴史に思いを馳せるという、地図を読む本来の醍醐味を奪ってしまう可能性があるからだ。著者が愛するのは、紙の地図を机いっぱいに広げ、まだ見ぬ土地を空想で歩く机上旅行の時間である。

 

坂本達哉著「「共感」の思想史:ヒューム,スミスから現代へ」(岩波新書 新赤版 2106)

「共感」の思想史: ヒューム,スミスから現代へ (岩波新書)

本書は、近代社会を支える「共感」、本書で用いられている語で記すと、「シンパシー」とエンパシー」という概念の系譜について、18世紀スコットランド啓蒙思想から現代の認知科学・社会問題に至るまで緻密に辿った思想史の試みである。

人間を単なる利己的なエゴイストと見なす人間観に対し、他者の痛みや喜びに共鳴する共感の能力こそが、文明社会の秩序と道徳を維持する根幹であることを力強く論じているのが本書の大きな特徴だ。

近代思想の起点において、トーマス・ホッブズは人間を自己保存のみを追求するエゴイストと定義し、社会を万人の万人に対する闘争の状態から脱するための契約体と見なした。本書の狙いは、こうしたホッブズ的なエゴイズムの系譜とは異なる、共感(シンパシー/エンパシー)を基盤とする文明社会論を再構築することにある。

本書サブタイトルにも挙げられているデイヴィッド・ヒュームは、人間の心には他者の情動を鏡のように映し出す共感(シンパシー)という本能的なメカニズムが備わっていることを見いだした。ヒュームにとって共感とは、他者の心のなかの印象を自らの心のなかの情熱へと変換する、一種の感情の伝播プロセスである。この能力こそが、見知らぬ他者との間に正義や法を成立させる共通の地平を提供するとヒュームは考えたのである。

このヒュームの概念を若きアダム・スミスは譴責処分を受けながらも――ヒュームの「人間本性論」はカレッジの有害図書と指定されていたため――貪るように読み、アダム・スミスは、ヒュームの共感論をさらに発展させ、単なる感情の伝染ではなく、想像上の立場交換として定義し直し。我々は他者の肉体的な痛みそのものを感じることはできないが、想像力を用いて「もし自分がその状況に置かれたら」と考えることで、他者の感情を分かち合うことが可能となるのだ。

ここで重要なのは、スミスが提示した加熱と冷却という感情の調整メカニズムにある。苦痛の中にいる行為者は、周囲の共感を得るために自らの激しい感情を冷却して抑える努力をし、一方で観察者は、相手の苦しみを理解するために自らの感情を加熱して高める努力をする。この双方向の歩み寄りが一点で交わるとき、そこに適宜性(プロプライエティ)という道徳的な調和が生まれる。アダム・スミスはこのプロセスを、文明社会が洗練されていくための不可欠なマナーや徳の源泉として位置づけた。

さらにここに、アダム・スミスの思想のもう一つの核心として、我々の胸の中に育てられる公平な観察者という概念が加わる。我々は常に周囲の現実の観察者の目を意識するだけでなく、自らの内に架空の第三者を想定し、その公平な眼差しに照らして自らの行動を律するようになるのだ。

この公平な観察者は、利己心と利他心の葛藤を調整し、社会的な正義を確立するための内なる審判となりる。本書は、アダム・スミスが「道徳感情論」で説いたこの共感の論理が、彼のもう一つの主著「国富論(諸国民の富)」における市場経済論とも深く結びついていることを解き明かす。市場における取引や説得という行為もまた、相手の欲求や立場を想像する共感能力なしには成立しない文明的なコミュニケーションの一形態なのである。

本書は終わりに、共感が持つ偏狭さと暴力性という影の側面にも光が当てている。アダム・スミスは、共感が家族や身内といった近しい対象に強く働き、遠く離れた他者や外国、異なる立場の人々に対しては弱まりやすいという限界=教区主義(パーロキアリズム)を鋭く認識していた。特に共感が祖国愛やナショナリズムと結びつくとき、それは時に他集団への攻撃性や不寛容を正当化する道具へと変質することを指摘する。著者は本書において、現代のグローバル資本主義やデジタル社会において、この偏った共感がいかに分断を深めているかを憂慮している。

18世紀の思想家たちが血の通った言葉で論じた共感は、単なる優しい気持ちといった自然な本能ではなく、他者の状況を懸命に想像し、自らのエゴを客観視しようとする知的な努力の集積であった。ヒュームやアダム・スミスの議論を辿り直すことは、私たちが人間であることの原点に立ち返り、見知らぬ他者と共存するための文明の技術を再発見の道程であるといえよう。

我々は、エゴイストとして孤立して生きるのか、それとも共感という絆を通じて文明社会の一員であり続けるのか……

 

アレクサンドラ・ウルフ著,滑川海彦&高橋信夫訳「20 under 20:ピーター・ティールの超難関の起業家養成プログラム」(日経BP)

20 under 20

先に記しておく。

本書は単なるビジネス書や成功哲学の物語ではない。

ピーター・ティールが立ち上げた極めて野心的な、そして、物議を醸したプログラムであるティール・フェローシップの全貌を追ったノンフィクションである。

簡単に記すと、20歳未満の天才的な若者たちに大学を中退して起業することを条件に10万ドルを支給するという、既存の教育システムへの挑戦状とも言えるプログラムの5年間の取材記録である。

本書の核心にあるのは、ピーター・ティールの主張である高等教育はバブルであるという信念である。ティールは単に大学をはじめとする高等教育機関が多すぎることを危惧しているのではない。多くの若者が多額の学生ローンを背負い、既存の枠組みの中で答えのある問いを解くことに時間を浪費している現状を憂慮しているのである。

その解として、ティールはハーバードやMITを蹴ってでも自らの手で世界を変えるという野心を持つ狂気じみた若者たちを求め、求めに応じてエリートの階段を自ら降りてシリコンバレーへ飛び込んだ若者たちの葛藤と熱狂を本書は描き出す。

実際、本書で紹介されるフェローたちは、アプリ開発のような目先の利益ではなく、人類が直面する答えのない難問に挑む、それこそハーバードやMITにいてもおかしくない人物達である。

ある者は、小惑星での資源採掘という、SFのようなアイデアを現実のビジネスにしようと奔走する。

ある者は、不老長寿を本気で目指すベンチャーキャピタルを設立する。その人にとっての老化とは克服すべき病にすぎないということか。

ある者は、睡眠をモニターするデバイスを開発する。この人は若くして会社を売却し、プログラムの初期における成功者の一人となる。

彼らの関心事は、宇宙開発、バイオテクノロジー、そして死の克服といった、かつては神の領域とされていたテーマである。著者は彼らを、伝統的なアメリカン・エリートのキャリアパスとは正反対の場所にいるカウンターカルチャーの体現者として捉えている。

この背景には、フェローたちのビジネスだけでなく、彼らを取り巻くシリコンバレーの独特な、あるいは“異常な”ライフスタイルという現実がある。

オープンな関係を標榜する共同生活や、身体能力を極限まで高めようとするバイオハッキング、あるいは既存の政府や法規制を無視して突き進もうとするリバタリアン的な思想など、そこには東海岸の知性とは全く異なる論理が支配している。著者は本書において、シリコンバレーというテクノロジーの楽園に住む人々の異質さを、時に皮肉を交えながら冷静に観察している。

物語は、華々しい成功ばかりではない。前述の小惑星採掘の夢が資金難で頓挫しかけたり、大学を辞めたことへの家族との確執に悩んだり、あるいはメディアの過剰な期待に押しつぶされそうになったりと、若者たちは絶えず試練にさらされる。さらにはプログラムを去り、再び大学に戻ることを決意した若者も登場し、本書ではその人の姿を通して、シリコンバレーの破壊的な手法が、個人の精神や倫理観にどのような影響を与えるのかという暗部にも光を当てている。

本書は、単なる起業家たちの列伝ではなく、教育とは何か、進歩とは何か、そして人間はどこまで神に近づけるのかという根源的な問いを読者に突きつけている一冊である。ティールが作り上げたこの実験場は、既存の社会から見ればカルトのように映るかもしれませんが、彼らが答えのない難問に挑む姿は、停滞する現代社会において、私たちが失いかけている未来を信じる力を強烈に思い出させてくれる。

シリコンバレーの光と影、そして人類の最前線で何が起きているのかを知るために、これほど刺激的なノンフィクションは他にないと言えよう。

さて、「10万ドルを渡すから大学を辞めろ」と言われたら、20歳当時の私はどうしたであろうか? あるいは、現在の私に「10万ドルを渡すから会社を辞めろ」と言われたら現在の私はどうするであろうか? 受け取らないという自信は、無い。