德薙零己の読書記録

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

高橋慎一朗著「中世鎌倉のまちづくり:災害・交通・境界」(吉川弘文館)

中世鎌倉のまちづくり: 災害・交通・境界

鎌倉は鎌倉幕府によって成立した新しい都市ではない。万葉集の時代から集落が存在し、令制国制定時に鎌倉に郡衙を置く相模国鎌倉郡が成立している。ただし、時代の趨勢を担うまでの大都市になるのは源平合戦期を迎えてからであり、鎌倉時代になると京都と肩を並べる都市になる。

本書は鎌倉時代における都市としての鎌倉についてまとめた一冊である。

注意すべきは鎌倉幕府が根拠地たる鎌倉という都市を構築する時点で日本国における都市の概念が条坊制による都市、すなわち、京都しかないという点である。自然都市ではなく計画都市であることを余儀なくされるが、京都における朱雀大路がそうであるように鎌倉においても若宮大路が都市の中心に走る道として整備され、都市を東西に分割している。さらに、その道は日常の便宜に供する道ではないどころか都市を東西に分割する道路である。

また、これは鎌倉という都市の抱えている宿命であるが、災害に遭う。地震や水害といった天災もあるし、火災に遭うこともある。鎌倉は狭いのである。狭いために通常であれば都市の便益に適さない低地だけでなく山岳地も都市に組み込まれている。ただし、800メートルの標高を誇る比叡山をはじめ東北西の三方向を囲む山地がそれなりの高さの山々である京都と違い、同じく東北西の三方向が山地に囲まれている鎌倉の場合、山はさほどの高さではない。すなわち、山に登るというよりも丘に登るといった感じで高地が都市に組み込まれており、その高さが防御力を高める効果を有している。そういえば、ユリウス・カエサルが城壁を破壊する前のローマは七つの丘が都市のメインで、丘と丘の間にある低地は庶民街という扱いであったが、そのあたりは居住そのものだけではなく災害対策を踏まえると合理的な選択とも言える。もっとも、ローマの丘の場合は、丘の上でないと暑いのと、整備される前の低地はマラリア蚊が飛び交う沼地であったという点もある。本書では取り上げていないが、平清盛の死因がマラリアであったとする説もあるのと、源頼朝が整備する前の鎌倉にはかなり沼地が広がっていたことを踏まえると、このあたりの要素も都市鎌倉の建設につながるのかもしれない。

相澤央著「雪と暮らす古代の人々」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)

雪と暮らす古代の人々 歴史文化ライブラリー

歴史を学ぶのに文献資料だけでは十分ではない。地図を拡げて出来事の起こった場所を確認すると違う姿が見えてくる。その地図が地形図であると、平面の地図ではわからない高低差が出来事を左右する要素であることを知ることができる。

さらにもう一点加えねばならない視点がある。

それが、出来事の起こった日、そのもの。

たとえば東京に住む人間にとっての雪とは、年に数回あるかどうかの特別なイベントである。明日は雪が降るだろうという予報は明日の到来を楽しみにさせ、実際に雪が降ると寒さはあるが風流も伴い、雪見酒と洒落込む者もいれば、雪だるまや雪合戦に興じる者もいる。雪かきをする者もいるが、ここでいう雪かきとは年に数回、あるいは数年に一回の特別な行動であり、日常生活の恒例行事というわけではない。

しかし、雪国に住む人にそんな考えは通用しない。甚だ迷惑な存在でしかない。屋根の雪下ろしは必須であるし、雪かきをしないなどという贅沢な選択肢を選ぶなどできない。ただただ怨嗟の対象である。

無論、永遠に雪が降り続けるわけでは無い。異常気象でもない限り夏季は雪に苦しむことなどない生活を過ごせる。気温が下がり雪のシーズンを迎えてから、気温が上がって雪のシーズンを終えるまでが困惑の季節となる。現在でも雪の量が多いと道路発高度目になり鉄道は運転を見合わせることとなるが、それは古代でもかわることはない。

本書はその視点を記す一冊である。タイトルには「古代の人々」と記しているが、その多くは平安時代の雪の情景である。理由は単純で、奈良時代までは公的記録を追いかけなければ雪の記録を求めることができないが、平安時代になると貴族の私的な日記という雪に関する記録が多くなるからである。それも、公的記録にある降雪そのものの記録ではなく、日記にある降雪量や雪との過ごしかたといった詳しい記録が登場する、

京都の冬は寒いというが、そして実際に寒いが、雪国というほどの降雪量や降雪回数ではなく、雪に対する接し方は現在の東京の人とさほど変わらない。雪に風流を見いだし、現在では雪だるまとなるべきところであるが、平安時代の人達は雪で雪山を作っている。藤原頼長は身の丈の三倍近い高さの雪山を一人で作ったともいう。

一方、当時の雪国の交通事情に降雪量が加わると、文字通り交通が遮断される。道路が雪で埋まってしまったために納税できなくなり、納めた税を京都まで運ぶ期限を延期したことの記録が出てくる。

そういえば、日本という国家は中国大陸の歴代国家と違って中央集権ではなく地方分権が進んできた歴史を持つ国家であるが、そのあたりの理由の一つに、自然環境による交通網の遮断による自給自足経済の発展もあるのかもしれない。

 

桃崎有一郎著「平安京はいらなかった:古代の夢を喰らう中世」(吉川弘文館)

平安京はいらなかった -古代の夢を喰らう中世- (歴史文化ライブラリー)

何ともミもフタもないタイトルであり、平安時代叢書を書いている私としては逡巡するところのあるタイトルであるが、読んでみればまさにその通りである。

すなわち、平安京は完成しなかったという事実である。

どうして完成しなかったのか?

結論から言えば、完成させる必要が無かったからである。本書はその点を突いている。

歴史の教科書には平安京の地図が載っていることが珍しくないが、あれは正確な平安京ではない。歴史の教科書に載る平安京平安京都市計画であり、現実の平安京では無かったのである。平安京は完成することなく工事は途中で打ち切られ、都市としての機能を開始させても朱雀大路の東である右京は事実上破棄されて東部の左京に集中するようになった。また、この朱雀大路についても本書は実用的なものではなかったと喝破する。そもそも南北の移動に利用することがメインな道路ではなく、壮麗な演出を主目的とする空間であった。この主目的が失われ、都市としての平安京は東半分で十分であることが判明すると、平安京の計画は現実に即さぬ過大なものであると示されたのである。

ただ、これは本書の主張と私の主張との相違点であるが、私はやはり平安京を完成させるべきであったと考えている。平安京の歴史において何度も刻まれることとなる水害記録を突き詰めていくと、工事を途中で止めてしまったために水害に遭うことが珍しくない都市へとなってしまったことに行き着く。また、平安京の需要を考えると都市機能は半分で問題なかったという点も、そもそも都市機能を完成させれば需要そのものが喚起されることを踏まえると、正しいとは言い切れなくなる。

本書の著者と私とのこのあたりの意見の相違、そして判断については、本書を御覧になっていただいた上で示していただきたい。

朧谷寿著,伊東ひとみ編「平安京の四〇〇年:王朝社会の光と陰」(ミネルヴァ書房)

平安京の四〇〇年:王朝社会の光と陰

現在放送中の大河ドラマ「光る君へ」。

今のところ、このドラマの舞台は平安京である。無論、紫式部の生涯を追いかけることになるわけであるから、平安京を飛び出して越前国(現在の福井県)に向かうシーンはあるはずであるが、その他の舞台は平安京とその周囲に留まるはずである。

さらに言えば、紫式部ことまひろの過ごす平安京桓武天皇の命令による平安遷都から200年が経過し、計画都市としての平安京から現実に即した都市京都へと移っていった結果の都市京都である。すなわち、当初の計画にあった左右両京からなる平安京ではなく、朱雀大路より東の左京に人が集中し、左京の北部に貴族の邸宅が建ち並び、南部に庶民街が立ち並ぶ時代に平安京である。なお、平安京の敷地の東、鴨川周辺や鴨川東岸については、この頃はまだ都市機能が万全ではなく、雑多な家の建ち並ぶ、言うなればスラム街である。これを都市として整備したのは藤原道長であり、そのあたりのことを大河ドラマで描くかはわからない。

さて、本書は大河ドラマの舞台である平安京の、そして、平安時代の400年間をまとめた一冊である。桓武天皇はいかにして、また、どのような理由で平城京を離れ、この土地に都を築き上げることとしたか。平安京はなぜ完成しないまま放置され、西半分の右京は都市としての機能はいかにして喪失したか。計画都市である平安京は計画が破棄された後に現実に即した都市としていかに変貌していったか。大河ドラマより後の時代となるが、平安京の都市機能がさらに東に進んで鴨川東岸までいたり、白河の地がいかにして京都に組み込まれることとなったか。平安京の南、今は無き巨椋池に広がる鳥羽離宮がいかにして成立したかを本書は書き記す。

本書は平安時代平安京400年間を如実に書き記す。大河ドラマ放送開始から2ヶ月半を経ているが、それでも本書を読むことで、大河ドラマの舞台を、大河ドラマの前を、大河ドラマのあとを詳しく知ることとなるはずである。

德薙零己著「おじいちゃんといっしょ」

おじいちゃんといっしょ 1: あの人は誰?

こちらのブログでの読書記録の紹介は毎朝です。ですが、本日は夕方のこのタイミングです。

いまも落ち着きを取り戻せなくなっている自分がいるからです。

令和6(2024)年3月24日午前1時30分、私の父が亡くなりました。87歳の生涯でした。

だからこそ、今日はこの作品を取り上げます。作者自身の作品です。

 

亡き父には告げていませんでしたが、こちらの作品の佐藤善次さんは昭和12(1937)年生まれ、つまり、学年こそ違えど亡き父と同い年です。

こちらの作品を作ったのは2017年であり、そのときに父の年齢(=80歳)と同い年の、それでいて甥の年齢(=15歳)と同じに見えてしまうというキャラクターを生みだしたわけです。

実はその頃、父は謎の高熱に襲われて救急搬送され長期入院していました。毎週見舞いに赴いていたのですが一向に改善する見込みはなく、原因が腰椎圧迫骨折によるものと判明したのは入院からしばらくしてから。それから二度の手術でどうにか回復したものの、それから父は要介護になりました。

いまから振り返ると、現実の父を見つめることができなくなっていることから、高校生にしか見えない、老いの片鱗も感じさせない80歳というキャラクターにつながったのかもしれません。

 

 

木全美千男著「誰にも書けなかった賃下げ・首切りご指導いたします:戦略的人件費カットの極意を伝授!Q&A」(日本法令)

誰にも書けなかった賃下げ・首切りご指導いたします: 戦略的人件費カットの極意を伝授!Q&A

昨日のこいつ↓の本である。

 

rtokunagi.hateblo.jp

こいつの悪行についてはこちらを参照。

togetter.com

 

昨日の記事で有限会社モンジュアソシエイトが倒産していたことは記したが、モンジュアソシエイトを検索するとを検索すると、このページだけは出てくる。

monju-associate.com

 

当ブログを御覧になっていただいているかたの中には上記の画像が見えない人もいると思うので内容を簡潔に記すと、「給料を減らして従業員をクビにしろ」という内容である。

そして、本書の内容も上記の内容と同じである。あるいはもっと露骨な内容である。

当方これでもビジネスの世界で生きMBAに片足を入れている人間の一人でもあるので断言するが、こいつの意見を是とし、成果を出したことを示す著述や論文は人類史上一つとして存在しない。

その証拠の一つとすべきか、上記リンク先のトップページを探してみていただきたい。消えているのである。

賃下げにしても首切りにしても企業存続(ゴーイング・コンサーン)を考えてのコトなのであろうが、そんなものでゴーイング・コンサーンは生まれない。むしろ悪化する。

こいつが代表取締役をやっていた有限会社モンジュアソシエイトがぶっ潰れたのが何よりの証拠である。

会社を潰した人間紙を持って間違いだと記した本、読む価値ありますか?

なお、本日の記事のトップ画面のリンク先はアマゾンの本書のページであるが、新刊本ではない。中古本なので買ったところでこいつの元に金銭が行くことはない。その点は安心してもらいたい。

 

木全美千男著「賃下げ・首切り・借金切りまとめてご指導いたします 改訂版」(日本法令)

賃下げ・首切り・借金切りまとめてご指導いたします 改訂版

地球上にどれだけの本があるかわからないが、読む価値の無い本というのは一部しか無い。そして、その一部に該当するのがこれである。

その作者がこいつ↓。

 

平成27(2015)年の年末から話題になっていたブログ「すご腕社労士の首切りブログ」でお馴染みの有限会社モンジュアソシエイトの木全美千男(きまた・みちお)である。

なお、炎上したのと、もう一つの理由でこちらので現在はブログが閉鎖されている。

 

こいつは、従業員を鬱病に追い込んで退職させるノウハウを売りつけて日銭を稼いでいた人物であり、本書はその方法を書き記した一冊であるが、内容についてはここで説明するより上記キャプチャのブログのこれまでのタイトルを振り返ったほうがいいだろう。

と、このようなタイトルを掲げて従業員をクビにする方法を伝授していたこいつだが、ブログが閉鎖されたもう一つの理由は以下の通り。

info.gbiz.go.jp

 

代表取締役をやっていた有限会社モンジュアソシエイトが潰れたのである。

会社経営云々を口にしていたこいつが代表取締役をやっていた企業が潰れただけでも、会社経営云々を指導するこの本を読む価値が無いのは御理解いただけるであろう。