昭和20(1945)年8月15日をどのように迎えたか。あの時代を体験した人の多くはその瞬間を、そして、それからの苦労を饒舌に語る。それだけ鮮明な記憶となって脳裏に刻まれている。それからの日本がどのような歩みを見せたかもまた、多くの人が饒舌に語る。苦しさと同時に、それまで立ちこめていた暗雲が消えて自由が手に入ったことを語る。
本書は、我々の生活に溶け込んでいるマンガやアニメーションがいかにして戦後日本文化の中で醸造されてきたかを扱った一冊である。
紙があれば自由に表現できる漫画は多くの若者に表現手段をもたらした。それまでの規制の伴う表現ではなく、自由闊達な表現が紙の上で展開され、マンガという新たな市場を生みだした。マンガは戦前にもあったが、戦前のマンガはあくまでも子供のためのコンテンツのうちの一種類であり、現在のようなマンガは無かった。戦後は戦前の制約が消えた新たな出版文化が誕生した一方、市場としては厳しかった。本を買えるほどの余裕が無い人が多かった。
そこで貸本が登場した。漫画家は貸本であることを前提とした作品を作り出し、読者は読みたい本を貸本から借りて読むという構図を生みだした。書店には返本があるために印刷部数の全てが売上となるわけではないが、貸本は必ず買い取りであるために印刷部数の全てが売上となる。ゆえに出版社としてはリスクが少なく、漫画家としても自分の表現の場として広がることとなる。書店に並ぶ書籍や雑誌について向けられる視線よりも緩いことから貸本は自由な表現が可能であった。ただし、印刷部数自体はそこまで大きな数字ではなく、結果として漫画家の収入も目を見張る物ではなかった。
それが、時代の変化によって一変した。
生活水準向上によって本は借りる物ではなく買う物となったことで貸本が減ったことで出版社にはリスクが降りかかることとなった一方、ヒット作を生み出せば莫大な収入を得るという構図になった。ここに、団塊の世代の人口動態の推移が加わる。幼少期に貸本を愛読していた世代が成長したことで、その世代をターゲットとする出版物を創出するというビジネスが誕生した。さらに、従来の年少者向けの出版物についても月刊誌ではなく週刊誌が珍しくなくなったことで、出版社は漫画家を求めるようになった。
それだけでも構造の変化として十分であるが、ここにアニメーションが加わる。創り上げた漫画がアニメーションとなってテレビで流れることが珍しくなくなると、漫画は単に紙に生み出される文芸ではなくコンテンツの一角を担う表現方法へと変化した。それぞれがそれぞれを補完し合う形で市場は拡大し、ヒット作を生みだした漫画家は莫大な収入を得る条件が整った。
という状態で、日本国は昭和40年代を迎えることとなる。
本書はそれまでの20年間のコンテンツ産業を追いかけた一冊である。