德薙零己の読書記録

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鈴木淳著「関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する」(講談社学術文庫)

今から100年前の今日、大正12(1923)年9月1日土曜日、午前11時58分44秒。
時刻はちょうど正午を迎えようとする時刻。週休二日などなく土曜日も働いたり学校に行ったりするのが当たり前であるが、それでも土曜日は午前中だけの勤務であったり午前中のみで授業が終わったりと、そろそろ午前中の仕事を終えて帰宅する、午前中の授業を終えて帰宅する時刻である。特に関東地方の多くの学校では8月31日までが夏休みであり、9月1日は夏休みを終えた初日ということもあって多くの小学生はいつもの土曜日より早く帰宅し、我が子がいつもの土曜日より早く帰宅することを知っている親は少し早めの昼食の準備をする者が多かった。

そこを、マグニチュード7.9の巨大地震が襲った。

激しく揺れて多くの家屋が損壊し、多くの人が生き埋めになってしまった。

幸いにしても下敷きにならずに済んだからと言って、安心などできなかった。震災直後から火災が発生し、火災は46時間に亘って東京から相模湾にかけての広い地域で多大な被害をもたらした。死者行方不明者合わせて10万5000名、うち、9万1000名が火災による被害者であった。

絶望の中、当時の人達は生き残るために奮闘した。消防で、医療で、そしてボランティアとして、被災した人達を助け、失われた東京、失われた関東を取り戻す入り口を作り上げようとした。

本書は、そうした人達の足跡を追った書籍である。関東大震災から100年を迎える今日、本書に記された震災後の復興の第一歩を踏み出すのに尽力した人達のことは決して忘れてはならない。

 

それから100年。避難の選択肢は増えた。建物の強靱化も進んだ。しかし、人口も増えた。100年前と同じ地震が起こったとき、100年前と同じ規模の被災者で済む保証などどこにもない。特に、東日本大震災の後がどうなったかを知っているだけに、恐ろしさは消えることが無い。

震災被害から免れようとした人の多くは、より被害の少ない北へと避難しようとしたが、彼らの足は東京府北豊島郡岩淵町赤羽、現在の東京都北区赤羽で足止めを喰らった。その北へ延びる鉄道の鉄橋が崩落していたのだ。現在の京浜東北線東北本線高崎線といった鉄道を栃木県方面からや群馬県方面に走らせようとしても、赤羽駅の手前の川口町、現在の埼玉県川口市までしかたどり着けない。東京から避難しようとする人も川口を目の前にして赤羽で足止めを喰らう。

鉄橋の応急措置をほどこしてどうにか赤羽駅と川口町駅とがつながったのが9月3日。埼玉県ではそれから本格的な被災者の受け入れを始めることとなり、その人数は延べ54万人を数えることとなった。当時の東京市と周辺5郡、現在の東京23区にあたる地域の人口はおよそ199万人。そのうち54万人が埼玉県に避難した。現在の比率で考えると200万人が埼玉県に逃れてきたこととなる。しかも、当時の埼玉県の人口は130万人なのに対し現在の埼玉県は730万人の人口を数えている。はたして、受け入れることができるだろうか、疑念に感じる。

幸いにして、先日実施された埼玉県知事選挙では被災者を見殺しにしろと訴える共産党の候補が無事に落選した。しかし、当選した知事もそこまで大した人間ではない。相手がゴミだったから当選できたが、平均的な知性の持ち主が相手なら落選していたであろう。そんな県知事がいる県へと堕してしまっているのが現在の埼玉県なのである。