德薙零己の読書記録

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マーク・ブライス著「緊縮策という病:『危険な思想』の歴史」(NTT出版)

2023年7月8日の埼玉スタジアムは、浦和レッズFC東京の試合であった。一見すると普通のJリーグの試合であるが、この日の浦和レッズは少し変わった企画でこの試合を迎えた。

小学生、中学生、高校生が、埼玉スタジアムの指定席を550円で購入できるのである。

通常、浦和レッズは通常から高校生以下の観客への割引をしているが、それでも埼玉スタジアムで開催する試合で最も安いチケットは800円、指定席だと2000円を超える。ちなみに大人はその倍以上の金額だ。

今シーズン、Jリーグは頻繁に無料招待を実施している。観客を無料で招待するのではクラブの入場料収入増にならないではないかと考えるのが普通であるが、ここにはカラクリがある。無料招待分をJリーグが補填しているのだ*1

こうなると、観客をどれだけ無料で集めてもJリーグが無料招待分の損失補填をしてくれるのだから、遠慮せずタダ券をばらまくことができる。実際、合計3万枚のタダ券をばらまいているクラブもあるし、無料招待の効果もあって通常の試合より突出した入場者数を記録したクラブもある。

一方、前掲の浦和レッズの550円の企画の場合、Jリーグからの補填はない。ただただ入場料収入を減らすだけである。ただし、子供に限定しているため保護者も来場する可能性が高くなる。大人の入場料は変わらないので、子供が来る=大人も一緒に来るという図式になり、入場者数が増える。実際、この日の浦和レッズは4万9108人の有料入場者数を記録した*2

無料招待と、割引と、観客が増えるという視点で考えれば無料招待のほうがクラブにとって利益になる仕組みになっているように感じられる。しかし、結論から言うと成功するのは割引のほうなのだ。

その理由を説き記しているのが、本書、「緊縮策という病」である。

 

緊縮策とは、突き詰めれば吝嗇(ケチ)である。

自分の負担を受け入れたくないという視点から「無駄遣いを許すな」という思考に至り、経済活動そのものを縮小させることになるのが緊縮策だ。その緊縮策を徹底的に批判しているのが本書である。

ブラウン大学の国際政治経済学教授であるマーク・ブライス氏が2013年に著した本書、世界中の政策と政府を形成してきた論争の的となる経済概念について、綿密な調査と示唆に富む考察を展開した一冊である。著者は本書において、緊縮財政の歴史的起源と結果を見事にたどり、従来の常識に挑戦する批判的な分析を提供し、この広く実施されている手法の欠陥を暴いている。

まず、緊縮財政の基礎を解剖し、経済理論におけるそのルーツと、様々な歴史的時代におけるその後の適用を探る。そして、この概念が経済危機への対応策として人気を博した経緯を明らかにし、この政策の魅力はその欺瞞的な単純さにあると主張する。

その欺瞞的な単純さと裏腹に、著者は緊縮財政が万能薬とはほど遠いことを説得力を持って実証し、社会と経済に有害な影響を及ぼすことを明らかにしている。それも歴史的な事例をともにして。たとえばギリシャ、たとえばイギリス、たとえばアメリカといった国が繰り広げてきた緊縮財政がどのような結末を迎えたかを記しているのが本書であり、そこには時代の経済政策を歴史家が捉えるときのパラダイムシフトが存在する。

本書が他の書籍と一線を画しているのは、著者の学際的なアプローチである。政治学社会学歴史学の知見を分け隔てなく取り入れ、緊縮政策の帰結を包括的に描き出しているのが本書との特徴である。緊縮政策が採用される政治的動機と、それがもたらす社会的影響を検証することで、ブライスは経済的選択と社会のより広範な構造が相互に関連していることを強調している。

本書は、政策立案者や主流派の経済思想が喧伝する一般的な緊縮推進論に対して、爽やかに批判的である。ブライスは緊縮財政の背後にある前提や正当性に効果的に挑戦し、それがしばしば不平等を悪化させ、経済成長を阻害し、社会的分裂を深めることを強調している。彼は保守的な視点を提供し、教育、医療、インフラへの投資を優させ、よりバランスの取れた経済政策へのアプローチを提唱している。

無論、本書の論旨が挑発的であることは否定できない。しかし、著者は妄想を書き記しているのではない。綿密な調査と豊富なデータ、そして学術的な裏付けもある。著者のの経済理論に対する深い理解と、複雑な概念を抽出する能力が、彼の分析に信頼性と深みを与えている。

冒頭に記したサッカーJリーグのクラブの経営戦略の差異は、典型的な緊縮策と積極策の差異である。本書は、我々の世界を形成してきた経済政策を理解することに関心のある人だけでなく、ビジネスシーンに身を投じている人にとって必読の書である。マーク・ブライス氏は、緊縮財政に対する説得力のある批評を提供し、その理論的裏付けに異議を唱え、社会に及ぼす悪影響を暴いている。魅力的で、よく研究され、説得力のある本書は、経済的意思決定に対して、より全体的で社会的意識の高いアプローチが必要であることをタイムリーに思い起こさせてくれる。