本書の表題から察するに、本書は「働いているとどうして本を読めなくなるのかを解説する本だな」と思わせる。思わせておいて、明治維新から現在に至るまでのこの国における読書状況、読書傾向をまとめた歴史書であり、その結果を踏まえた上で表題の解説をしている本であることに驚愕させられる。
たしかに江戸時代には既にベストセラーがあり、室町時代にも鎌倉時代にも本が読まれ、さらに平安時代には源氏物語まで誕生したのだから、この国は読書が日常の光景の中に溶け込み、読書をすること、あるいは本そのものが当たり前の環境として存在していた、そう考えてしまいがちである。
しかし、そのような環境はなかなか用意できるものではない。何より時間が無い。たとえば江戸時代の庶民が娯楽として黄表紙を読んでいたのは、作品としての面白さもあった一方、そもそも読んでいられる時間もあったのだ。一つの作品が短く、読み終えるのにさほどの時間を要さない。江戸時代には南総里見八犬伝のような長編小説もあったし、先に挙げた源氏物語も長編小説として著名であるが、一つの長大な作品ではなく、細かく分かれた作品の連なりで一つの作品を形成している。つまり、「源氏物語を読む」ではなく「源氏物語の末摘花を読む」が読書であり、全巻を読むというのはそれらの読書の積み重ねであった。
一方、娯楽中心ではなく教養中心の書籍となると、時間を掛けて読むことが求められる。このような本を読んでいられるのは、本を読んでいられる時間のある人だけである。江戸時代の武士はそこまで仕事量が多くなく、ヒマを持て余すことも珍しくなかった。かといって、何もせずに呆けているのを是とする環境でもなかった。ゆえに、鍛錬や修養で時間を消化することが求められ、書見台に本を置き本を読んで学ぶことは武士として称賛される時間消化の方法ともされた。
この状態で明治維新を迎え、読書に対する接し方も激変する。教養を高める読書が求められ、実際に西国立志伝などが大流行した一方、いつ、どこで、どのように本を読むのかという問題も登場した。その解答の一つが明治維新以降に確立された週に一度の休みであり、また、大正時代に鉄道での通勤が確立されるようになると通勤の車中が読書空間に変わった。それに合わせるように書籍の形態も新書や文庫のように持ち運びに便利な大きさになっていった。と同時に、書籍を出版する側も読むのが通勤中のサラリーマンであるという前提の本を出版するようになった。
その一方で、大正時代には円本と通称される全集が流行を見せ、本の背表紙が部屋を飾るインテリアとして持てはやされるようにもなった。もっとも、インテリアとしての書籍を購入者自身が読むことは少なかった一方、親が買いそろえた円本の全集を、その家の子が読むようになったという光景も繰り広げられていった。親が読まなかったのではない。読む時間が無いまま放置されていたのを、時間があり、かつ、読書への意欲のある子が読むようになったのである。
その傾向は戦後も続く。いや、戦後はさらに顕著になる。
それはどのように顕著となるのか、そして、どのようにして本が読めなくなるのか。
その答えは、本書を読んでいただきたい。
最後に記しておくが、私はこの本のラストに記されている解に同意しているわけではない。少なくとも、働きながらも本は読んでいるのだから。