鎌倉時代はこれまでに無い新しい仏教の登場した時代でもあった。厳密に言えば平安時代の終わりに既に新しい仏教の萌芽が見え、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗を、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、一編が時宗を作りだした。
ここまでは鎌倉時代の仏教として高校入試に登場する内容である。
問題はここから先、鎌倉時代に新しい仏教が多数興隆した理由と、都市鎌倉に多くの寺院が並立した理由、そして、既存仏教がどのような姿勢で新しい仏教と新しい大都市に向かい合ったかを見つめると、これまでに無い新しい、時代と仏教とのつながりが見えてくる。
さらに着目すべきは、中国大陸の宗教的なつながりである。モンゴルの侵略を受けていた南宋や、モンゴル帝国から国号を変えた元との関係も、仏教を通じたつながりで捉えると、都市鎌倉は京都から東に遠く離れ、中国大陸から距離のある都市である一方、ある意味京都より国際的つながりを有する都市であったことも見えてくる。
都市鎌倉が京都以上に国際的つながりを有し、仏教に深く染み込むようになった理由の中には、不安定な時代と戦乱続きの日常を余儀なくされている中にあって、仏教に救いを求める人が多く現れ、その需要に応えたというのもある。仏教としても、既存権力との結びつきではなく、新たな権力である鎌倉幕府と結びつき、新たな信徒を獲得するという目論見も存在した。そして、都市鎌倉は実利的な目的で寺院を必要とした。すなわち、宿泊施設としてである。ホテルなど無いこの時代、寺院は貴重な宿泊施設であった。それも、軍勢をそのまま収容できる貴重な宿泊施設であった。
この状態で鎌倉と仏教徒の関係は150年間の蜜月を迎える。ただ、その終焉はあまりにも突然であった。鎌倉殿の13人から逃げ上手の若君への時代の流れは緩やかではなく突然の連続であったのだ。