德薙零己の読書記録

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播田安弘著「日本史サイエンス:蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る」(講談社ブルーバックス)

日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る (ブルーバックス)

鎌倉時代の二度の元寇は、二度とも神風によって日本の勝利に終わったとされている。実際に当時の記録にも暴風雨が吹いたことは記録に残っている。だが、それだけが戦勝の要因なのか?

豊臣秀吉中国大返しは6月5日に備中高松城を出発し、6月13日に京都近郊の山崎まで舞い戻って明智光秀を討ったとされるが、果たしてそれは可能なのか?

建造当時日本最大の、世界でも最大級の戦艦であった戦艦大和は、何ら戦果を残すこと無くわずか3年4ヶ月で海に沈んだ無用の長物と扱われるようになったが、本当に無用の長物だったのか?

本書は上記三点の疑問について科学の視点から回答を示している。

元寇については、そもそも文永の役当時の蒙古軍の軍勢の規模があり得ないとしている。通説では4万の兵とされているが、当時の高麗の造船技術に加え、騎馬を多数搭載していたことの事実も踏まえると、どんなに多くても蒙古軍の兵数は2万6000人が上限。しかも、博多湾の狭い地域に船を集中させて上陸しようとしたために上陸できた兵の数が少なく、上陸地点も博多から離れているために鎌倉武士の迎撃を受けることとなった。大陸から乗ってきた船から直接吸収に降り立つのではなく小舟に乗り移っての上陸戦となるが、小舟を三往復した時点で満潮を迎え船の投錨も効かなくなった。そして荒れ狂っていた博多湾。船に残るも地獄、小舟に乗って上陸しようとすると鎌倉武士に討ち取られる。少なく見ても5000以上の蒙古兵が討ち取られたことが判明している以上、暴風雨以前にもう古墳は即時撤退以外の選択肢はありえなかった。

中国大返しについては、リスクはあるが可能であるとしている。日付が正しければ、平氏一人あたりの一日当たりの移動距離は東京駅から埼玉県の鴻巣まで。これを毎日繰り返すのである。一日だけならどうにかなっても連続は困難とするしかない。だが、豊臣秀吉は成功させた。どうやってか? ヒントとなるのは海路である。豊臣秀吉は陸だけでなく海でも大返しをしたのである。ずっと陸を移動したのではなく海路を利用できるところは海路を利用したのだ。さらに、兵士は可能な限り荷物を持たせず、食糧も、寝床も、途中の地点で用意させている。汚い話になるが糞尿についても用意済だ。豊臣秀吉備中高松城への攻撃を一ヶ月以上続けている。そしてこれが豊臣秀吉に限らず名将であれば必ず実施していることであるが、情報連携と物資補給は途切れさせることがない。裏を返せば、情報連携網と物資補給路を逆にすれば、どうにかなる。

戦艦大和については、たしかに戦争で沈んだが、戦艦大和を建造するだけの技術力は戦後日本の産業復興に大いに役立った。ただ、運用に多大なミスがあった。あくまでも戦艦そのものだけを捉えると、建造時点での技術力を結集させた戦艦であり、仮に戦争がなければ日本国の造船技術を、そして製造技術を国内外に大いにアピールすることとなったであろう。

本書はあくまでも科学的見地から日本史を捉えるシリーズの第1巻であり、本書は日本史の中から3点をピックアップしている書籍である。近年は文系理系の区別がなくなってきているが、人文科学の代表とも扱われる歴史学でもそれは例外ではなく、歴史を学ぶにも理系的素養が求められる時代になっている。だからこそ、歴史学の理系的アプローチにおける絶好の入口となっている本書に大きな価値がある。