德薙零己の読書記録

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佐藤卓己著「言論統制[増補版]:情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」(中公新書)

言論統制 増補版-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書 2806)

想像していただきたい。二次元の美少女のポスターに発狂して発禁を訴える人、自衛隊在日米軍の存在に発狂して暴れ回る人、そんな人が権力を握って言論を統制したらどうなるか?

戦前戦中の日本はそんな人間が言論を統制していた。

戦前戦中の言論の不自由。その中心人物として扱われているのが、本書の主人公である情報局情報官の鈴木庫三(すずき・くらぞう)陸軍少佐である。戦後のメディアは戦前戦中の仕打ちに対する反発なのか、とにかく鈴木庫三を徹底的に貶めている。

紙の供給も国が管理するようになってしまった時代にあって、出版社は自社の出版物を満足いく形で印刷して届けることができなくなっていた。印刷して製本しようにも紙が無いのだ。そのため、出版するためには紙を割り当ててもらう必要があるのだが、その裁量を鈴木庫三は握っていたのである。

とにかく鈴木庫三に気に入られなければ紙がもらえないのだから、鈴木庫三の望む出版をしなければならない。ところが、ここで大問題がある。鈴木庫三はたしかに陸軍士官学校を卒業しただけの学力の持ち主であった。しかし、この人には教養が絶望的に欠落していたのだ。人間としての一般常識を全く持ち合わせていなかったとするしかない。自らの出世欲のために必要な文字を解答用紙に書き記す能力だけはあったが、この人には文化の片鱗も無ければ、文明の欠片も無い。何がダメなのかを批難する能力ならばあっても、何かを生み出す能力はない。日本をどのような国にするか、どのような社会にするかについての論文を書き記しているものの、格差を無くすためにみんなで貧乏になろう、教育は全部国庫負担として貧しい人にも教育の機会を与える代わりに何も生み出すことのできないロボットを大量生産しよう、そんなことを平気で公表するのが鈴木庫三という人間だ。

そんな人間が言論を統制するのだから、出版社の人々は鈴木庫三の脳内お花畑につきあっていかなければならない。それでいて鈴木庫三は自分のことを知識層と信じて疑っていないから余計に始末が悪い。鈴木庫三は貧しい生まれから苦学して軍という世界で出世を果たしてきた、それはいい。だが、その程度の貧しさで同等以上の学力を手にして出世を手にした人間は数多くいる。その数多くいる人間の中に鈴木庫三より劣っている知性の人間を探すのは困難とするしかない。文化も、文明も、科学も理解せず、妄想と精神論を繰り広げることを以て知識人だと思い上がっている人間が、よりによって最悪のタイミングで、しかも言論の場で権力を握ってしまったのが戦前戦中の日本なのだ。

その結果、言論は萎縮し、文明は衰退し、文化は破壊された。

このことの損害があまりにも大きすぎる。本書は鈴木庫三に向けられた悪評の否定もしているが、否定されなかった事実だけを抜き出しても、あまりにも損害が大きすぎる。

現在の日本が鈴木庫三から学ぶべきことがあるとすれば、冒頭に述べたような鈴木庫三のような人間の繰り広げている言論弾圧を完全に排除し、この国をあの時代へと落ちぶれさせないようにすることである。