本書では「レイシスト」と称しているが、私は敢えて「差別する人」としたい。
本書で何度か登場するフレーズも、「差別する人の反対は、差別しない人ではなく、差別させない人」と置き換えたい。
本書はアメリカの白人男性優位社会の様相を描き出すと同時に、そうではないと見做され、扱われている人に対してどのように扱っているかをまとめた一冊である。それも皮肉なことであるが、本人が「これは差別をしないための行動」としていることがまさに差別を生み出していることを表出化させている。
リベラリズムは本来であれば自由と多様性を尊重する思考のはずであるが、その思考に基づいて行動することもまた差別になりうる。さらには自分で自分のことを「差別しない人」と自負している人がまさに露骨なまでの差別を繰り広げているという光景も珍しくない。X(旧Twitter)によくある光景であるが、他者の差別を糾弾している人がまさにこれ以上ない差別を繰り広げている光景など珍しくない。
本書の主軸は、白人の進歩主義者が微笑みを浮かべながら、把握されにくく、否定しやすい方法で日々黒人を貶めていることへの指摘である。進歩主義者は自分で自分のことを「差別しない人」と思っているため、それが差別であることを指摘し、差別をさせないための批判に対して極めて自己防衛的になり、ときに攻撃的になる。また、問題は外側にあると思っているため、行動の必要性を見いださないという結果に至ることもある。
かくいう私も、自分で自分のことを「差別しない人」と考えているフシもある。ゆえに、自分の発言や行動が差別であると指摘されたときに苛立ちを隠せなくなるであろうと予想する。特に、何を以て差別とするのかは時代によって変わることを考えると、古いままでいたならば私は周囲から「差別する人」と扱われ糾弾されるであろうという恐怖がある。
本書はそのことを気づかせてくれる一冊である。