厳密に言うと学校に限ってはいないが、一般的には学校が提供する食事。極論すると給食とはそういうものである。
しかし、ここで一点考えなければならないことがある。
どうして学校が食事を提供しなければならないのか。
一日三食が当たり前であるという前提に立つと、学校の中で過ごす時刻が昼食時刻をまたぐからである。昼食無しに午後の授業を受けるというのは空腹の中で学習することになるわけで、快適な学習環境とはならない。かといって、子どもに昼食を持参するよう求めるとなると、昼食を用意するという負担と家庭に負わせることとなる。貧困ゆえに食事を用意できない家庭もあるし、育児放棄の家庭などは経済的理由など関係無しに食事無しとなる。
また、家庭で昼食を用意するとしたら格差が如実に表れることになるし、また、登校時に持参した昼食が時間経過とともに食中毒を起こす懸念すらある。これは杞憂かもしれないが、無視できる観点ではない。
そこで学校が食事を用意する。誰もが同じ食事を同じ時刻にすることで、午後の授業も受けることができるようにする。それが給食だ。
さて、この給食。本書の表題にあるように歴史的観点だけでなく、社会的にも、経済的にも、そして栄養学の側面に於いてもなかなかに優れた制度ではある。無論、何ら文句の付け所のない百点満点の制度とはいえない。アレルギーの問題や宗教上の問題など検討すべき点は多々ある。また、私のように給食のせいで集団食中毒を体験した人間だっている。それでも、給食無しの学校を考えると、現時点の教育を超える教育が成立しないどころか、現状維持すら不可能になると断言できるのだ。
本書はこうした給食の歴史を追いかけた書籍である。本書を読んだ人には一般的な概念だけでなく、知りうることの亡かった給食の現実を知ることとなるであろう。