德薙零己の読書記録

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網野善彦著「中世荘園の様相」(岩波文庫)

中世荘園の様相 (岩波文庫 青N402-1)

ついにこのときを迎えてしまった。

岩波文庫と言えば教科書に載っているような古今東西の名著を網羅しているレーベルであるが、それは同時に、歴史のテスト、あるいは古典のテストで登場する書名である。つまり、かなりの可能性で著者は歴史上の人物である。故人であるという以前に生まれる前の人物である。

それが歳月を経ることで、自分の知っている人が、会ったことのある人が、著者となって岩波文庫のレーベルに登場する瞬間を迎えるであろうというのは、脳内では知識として理解していることであるが、実感できる話ではなかった。去年までは。

去年ついに、自分が会ったことのある方の書籍が岩波文庫に登場した。網野善彦氏だ。もっとも、私と網野善彦氏との関係は、網野善彦氏の講演を私が聴衆の一人として聴いたというだけで、こちらは網野善彦氏を目にしたことがあると記憶していても、網野善彦氏にとっては数多くの聴衆のうちの一人でしかないから、面識があるなどという構図は成立しないのがまだ救いか。

さて、本書は網野善彦氏のデビュー作であり、若狭国太良荘、現在の福井県小浜市に存在していた荘園の成立から消滅までを描き出した一冊である。それは何も太良荘に特別な出来事が集中していたからではない。太良荘に起こっていたことは日本中のどの荘園でも起こっていた出来事である。網野善彦は太良荘に関する古文書を徹底的に調べ上げて論文としてまとめ、本書を上梓した。岩波文庫版は令和5(2023)年に刊行された一冊であるが、本書はもともと昭和41(1966)年に刊行された書籍である。つまり、現在の歴史研究に必須となっているデジタルヒューマニティーズの恩恵を全く得られない状況下でまとめた一冊である。

もし、著者名を隠して令和5(2023)年に刊行された書籍であると喧伝したら、最新技術を駆使した若手研究者の新しい歴史研究書と捉えるであろう。その上で著者名を挙げたら多くの人が驚愕するであろう。何しろ、現在のデジタルヒューマニティーズの実践としか思えない歴史研究書の上梓を今から58年前の研究環境下で実現させたことは感嘆するしかない。