遣唐使が当たり前であった頃、日本の社会は唐からの移植であった。唐の政治制度、唐の律令、唐の文化こそが正解で、唐の社会を日本にも構築することこそ正解と見做されていた。
その唐が無くなった。無くなっただけでなく、その後の五代十国の混乱は日本が手本としていた国が手本ではないことを気づかせるに十分であった。唐の滅亡の前から日本社会に唐の社会を移植しようとする試みは困難であることは露呈していたが、その試みこそが正しいことと信じる人達が強固な存在として国家の中枢に君臨し、現実に法を合わせるのではなく、法に現実に合わせようとしていた。
その結果が、180年間で6回という全国的な飢饉だ。
律令に社会を合わせようとし続けた結果はあまりにも重かったが、律令に社会を合わせようという動きを覆すことはもっと重かった。藤原良房は律令制を壊すためにかなりの強権を発動させたが、それでも律令制を覆して現実に即した社会を創り上げるまでに、藤原基経、藤原時平と三代を要した。その後の藤原忠平の時代に、律令制崩壊後から200年間で唯一となる全国的な飢饉、すなわち平将門の乱をはじめとする承平天慶の乱を経験することとなったが、その後に待っていたのは藤原道長をピークとする藤原摂関政治の時代であり、その時代は以前よりは良い暮らしを過ごせる時代であった。
だからこそ、有職故実はこの時代を手本とする。
だからこそ、平安朝の文化として思い浮かぶのは藤原道長の時代となる。
だからこそ、現在の人はかの時代の文化を「国風文化」と呼ぶ。