德薙零己の読書記録

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倉本一宏著「藤原道長「御堂関白記」を読む」(講談社学術文庫)

古今東西、権力者自身が筆を手に取り文章を残すこと、その文章が現在まで伝わることは珍しくない。その意味で、御堂関白記もそうした権力者の文章のうちの一つであるといえる。

しかし、御堂関白記には他と大きな違いが二つある。

一つは私的な文章であるということ。

もう一つは直筆が現存しているということ。

これにより、21世紀の現在に生きる我々は今から1000年前の絶対権力者である藤原道長の直筆の日記を読むことができる。

その日記に記されている文字はお世辞にも丁寧とは言えない。はっきり言って下手くそである。しかし、藤原道長という人は字が下手な人であったわけではない。藤原道長の直筆である金峯山埋経は一文字一文字が丁寧に記されており、金峯山埋経の文字に下手くそさは見当たらない。

一方、御堂関白記は字が汚く、書き間違いが多く、間違えた文字の上に無理矢理正しい文字を上書きしたり、間違い箇所を塗りつぶして別の文字に置き換えたりしているなど、広く公開する想定など全くしていない、良く言えばありのままの文が記されていることが見てとれる。日記のスペースに書ききれないときは余白に書いたり裏面に書いたりとした工夫が見てとれるが、その工夫方法も絶対権力者のやることであろうかと疑念を生じるほどにケチくさくみみっちい。そのためにかえって、御堂関白記の筆者である藤原道長が、全知全能の絶対者ではなくあまりにも人間くさい一個人であることを痛感させられる。

後世の人、特に後世の藤原氏の面々は藤原道長を理想の人と考え、藤原道長の足跡を日記から追いかけることで、藤原道長の時代を自らの手で復活させようとした。そのときのマニュアルとなったのがこの御堂関白記である。人間くさい汚い字の日記ではあるが、藤原道長の直筆であるために、藤原摂関家の後継者たちは御堂関白記を大切にし、何があろうと守り通そうとした。

無論、全てが現存するわけではない。現存するのは一部である。それでも、現存する部分を読み返すと、一人の人間としての藤原道長の姿形が見えてくる。それは、神格化された存在ではなく、あまりにも人間くさい一個人としての藤原道長である。