德薙零己の読書記録

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コルナイ・ヤーノシュ著「資本主義の本質について:イノベーションと余剰経済」 (講談社学術文庫)

想像していただきたい。

生まれたときから戦場だった。家族が、友人が、恋人が、知人が、同僚が、その日、そのとき、その場にいたという理由で殺されるのが日常であるという暮らしを強いられていることを。自分の父も侵略者に殺され、自分自身も殺される寸前であったことを。

1928年にハンガリーで生まれたコルナイ・ヤーノシュ少年が迎えなければならなかったのはこのような人生であった。ナチスに捕らえられて労働キャンプに送られたとき、現在の日本人の感覚でいうと高校一年生であった。脱走して修道院に匿われたコルナイ・ヤーノシュ少年が知ったのは、父親がアウシュヴィッツで殺害されたという知らせであった。

そんなコルナイ・ヤーノシュ少年にとって、ナチスの悪夢から解放してくれたソビエトは希望の星に見えた。そして、ソビエトにつながっているハンガリー共産党は自らの未来を託すに値する存在に映った。共産党の掲げる理想も、マルクスの指し示す社会も、明るいものと映った。

共産党政権が実現するまでは。

実現した後で待っていたのは、また別の地獄だった。ナチス共産主義の違いなどペストとコレラの違いでしかなかった。本来ならペストもコレラも駆逐しなければならないのに、ペストに罹らないためにコレラに罹るようなものだった。

自由ではなく不自由だった。

平等ではなく不平等だった。

平和ではなく戦争だった。

豊かな暮らしではなく貧困だった。

希望ではなく絶望だった。

信じていた未来を構築したのは、共産党が敵とした西側諸国だった。西側には自由があり、平等があり、平和があり、豊かな暮らしがあり、希望があった。コルナイ・ヤーノシュは現実を目の当たりにし、目の前に広がっている問題の根源がどこにあるのかを見いだそうとした。

その結果は、自分の信じていた共産主義そのものが原因だった。全く何の役にも立たなかった。何の成果も生まなかった。何の価値も無かった。ソビエト75年の歴史で生まれたのはテトリスだけだった。東欧諸国のソビエト植民地45年の歴史で生まれたのはルービックキューブだけだった。あとは何もなかった。歴史学者に人類の過去の失敗を、経済学者に経済政策の失敗例を教えてくれた。ただそれだけだった。

共産主義を信奉し、経済を学んだコルナイ・ナーノシュ氏は、自らが過ごしてきた社会、自らが信じてきた社会こそが間違いの根源であることをみとめ、数多くの著書を世に送り出した。本書はそのうちの一冊である。

 

本書は、イノベーション、ダイナミズム、経済システムの複雑な関係を探求する、魅惑的で示唆に富む書である。ドラッカーが予期せぬ成功と失敗をその第一に掲げたイノベーションについて、計画経済ゆえにイノベーションが発生しないまま時間のみが経過した社会、そして、そうした社会がそれが様々な経済システムに与える影響について、その専門知識と洞察力を発揮している。

本書の特筆すべき長所のひとつは、東側諸国の一員でありながらその前を知っている人物が、共産主義政権のスタートから終わりまでを実体験したまさにそのことがもたらす理論的な分析と現実世界の事例をシームレスに融合させる能力であり、本書を学者と一般読者の双方に親しみやすいものにしている。特に、市場ベースの資本主義から中央集権的な社会主義まで、さまざまな経済システムを包括的に概観する。これらのシステムの長所と短所を検証することで、著者は技術進歩がそれぞれとどのように相互作用しているかについての詳細な分析の舞台を整える。

著者は、イノベーションの概念と経済成長の原動力となる重要な役割を掘り下げている。技術的ブレークスルー、組織の変化、起業家のイニシアチブなど、イノベーションのさまざまな側面を巧みに探求している。コルナイは、これらの要因がいかに経済システムのダイナミズムを形成し、生産性、競争力、そして全体的な繁栄という点で異なる結果をもたらすかを巧みに説明し、その上で、イノベーションを生み出さなかったがゆえに貧困を生み出したと共産主義を看破する。

本書を通して著者は、システムと技術進歩の間の複雑な相互作用を理解することの重要性を強調している。彼は、イノベーションは市場ベースの資本主義に関連することが多いが、中央集権的な計画経済においても、異なるダイナミクスを持ちつつも繁栄しうることを強調することで、従来の常識に挑戦している。先進国と発展途上国の両方のケーススタディを分析することで、いかなる経済システムもイノベーションとダイナミズムを独占することはできないことを効果的に実証している。

著者の研究は、イノベーションに関する包括的な分析を提供するだけでなく、技術進歩の促進における政府政策の役割についても重要な問題を提起している。彼は、規制、知的財産権、研究開発への投資の影響を検証しながら、国家の介入と市場原理との微妙なバランスを探っている。このニュアンスの異なるアプローチにより、本書は政策立案の現実に即したものとなっており、政策立案者、エコノミスト、ビジネスリーダーにとって同様に貴重な洞察を提供している。

本書は、幅広い学術文献と実証的証拠を駆使し、綿密に調査された本である。複雑な経済概念えだるものの様々な専門レベルの読者が理解できるようにしている。さらに、このテーマに対する彼の情熱が光り、読者を惹きつけ、イノベーションの変革力に対する純粋な好奇心を掻き立てる。ひとつだけ難点があるとすれば、共産主義を実体験ではなく過去の歴史として学んだ人にとっては、その不合理さゆえにあり得ない過去であるという認識が抱かれやすく、本書のサッシし示す当時と現在との具体例の比較を受け入れるのは困難であろうという点である。それでも、親しみやすい筆致と、重要な概念を親しみやすい例で説明する能力は、この潜在的な課題を軽減するのに役立っている。

本書は、イノベーション、ダイナミズム、経済システムの間の複雑な関係について、豊かで啓発的な探求を提供する称賛に値する著作である。技術進歩の背後にある原動力と、それが社会に与える影響を理解することに関心のある人にとっては必読の書である。コルナイ・ヤーノシュの包括的な分析、洞察に満ちた観察、ニュアンスに富んだ視点は、本書を経済学分野への価値ある貢献としている。