奈良時代の天然痘大流行のピークを迎えた天平9(737)年、後の桓武天皇こと山部皇子は、後に光仁天皇となる白壁王を父と、後に高野姓を受けることとなる和新笠を母として生まれた。この時点で、山部皇子が後に皇位に就くとは誰も想像していない。何しろ皇族ではあるのだが皇位継承権が低かったのだ。父が皇位から遠いだけでなく、母の素性が不明なのだ。公的には百済王族の子孫が桓武天皇の母ということになっているが、この時代、素性不明の者が自分のことを百済王の子孫であると名乗ることは珍しくなかった。白村江の戦いで滅亡した百済からは数多くの人が日本に亡命をし、その中には百済王族もいた。こうなると、由緒のない者は百済王族の子孫を名乗れば由緒がないことをごまかせることができる。もっとも、桓武天皇自身も自分の母の出生をかなり無理して捏造したようで、六代遡ってようやく百済王族につながるという捏造である。
この捏造が帝位に就いた後の桓武天皇の治世にもつながる。東アジアにおける歴史書というものは新しい王朝が前の王朝の記録をまとめる、すなわち、一つの時代の終わりを迎えた後で、新たな時代の者が前の時代をまとめたものであり、日本国における立ち位置としては、壬申の乱を一つの区切りとして、日本国建国からの壬申の乱までを一つの時代区分として扱い、その結果を日本書紀としてまとめている。ここまではいい。問題はその後。日本書紀の続きである続日本紀は桓武天皇の時代までを描いているのだが、続日本紀の編纂そのものが桓武天皇の時代の出来事なのだ。すなわち、桓武天皇は自分で自分を一つの時代の終わりと始まりであると明言したのだ。
その視点で桓武天皇の業績を振り返ると、桓武天皇の強烈なまでの専断と、その背後にある強烈なまでのコンプレックスが見えてくる。その結果が桓武天皇以降400年に亘って続くこととなる平安時代である。
私は平安時代を全て書くという野望のもと、平安時代叢書と題する一連の歴史小説を描いている。その終わりは承久の乱に置くことも決めている。その後、平安時代叢書のスタートを書きなおす。すなわち、本書に記されている桓武天皇の業績をはじめとする、奈良時代の終焉から平安時代のスタートを描く予定でいる。
その作品がどのようになるかはまだわからない。
それまでは本書を参照いただきたい。