德薙零己の読書記録

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ニーアル・ファーガソン著「キッシンジャー 1923-1968 理想主義者」(日経BP)

ハーバード大学卒業論文には論文の長さについて規制がある。35,000ワード以内であること、または、140ページ前後であることがそれである。ハーバード大学はなぜそのようなルールを設けたのか?

そのルールの生みの親こそ、本書の主人公であるヘンリー・キッシンジャーである。キッシンジャー卒業論文の長さは388ページに及んでおり、担当教授は卒業論文の評価を150ページで断念してしまったという。さらに恐ろしいことを言うと、この388ページの卒業論文、これは、全てを書き切るとあまりにも長くなるので、キッシンジャーが推敲に推敲を重ねて短くまとめた結果なのである。

本書は、1960年代から1970年代にかけて、国家安全保障担当補佐官や国務長官として、アメリカ共和党政権における外交を一手に担ったキッシンジャーの半生を追った伝記であり、冒頭のエピソードは本書からの抜粋である。

キッシンジャーと言えばベトナム戦争を思い浮かぶが、そもそもなぜベトナム戦争が泥沼化したのか。一般的なイメージでは、多くの人が反対したのに政権が戦争を続けたというものだが、本書はそのイメージを覆す数字が載っている。

犠牲が増えようと総力戦に突入すべき:
民主党支持者:48%
共和党支持者:53%

一方、戦争終結に向けての撤退に賛成するアメリカ国民は過半数を大きく下回る28%であるという状況で、キッシンジャーベトナム戦争を終わらせなければならなかったのだ。

キッシンジャーアメリカ生まれではない。ドイツ生まれである。ユダヤ人であったがためにナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命し、第二次大戦でアメリカ軍の兵士となり、連合軍の兵士として祖国ドイツの土を踏んだという経歴を持っている。

この亡命に至る経緯、すなわち、なぜドイツがナチス政権を選んだのかについても、当時ドイツに住んでいたキッシンジャー少年の視点から語られている。
結論から言うと、ドイツはナチスの危険性を知っていた。知っていたが、ナチス以外は安全というわけではなかった。ナチスを選ぶか他を選ぶかという選択は、殴られるか殺されるかという選択であった。ナチスなら殴られるだけで済む。共産党をはじめとする反ナチス勢力は確実に殺される。ならばナチスの方がマシだという選択肢だった。実際には殴り殺されるのだが……

この経験が、後の冷徹な現実主義者、キッシンジャーを誕生させたと言える。

外交というのはいかにしてWin-Winを築き上げるかということに尽きるというのがキッシンジャーの姿勢であった。

それは、本書に記されたキッシンジャーのエピソードからもわかる。

中東戦争におけるスエズの救済がそれだ。

中東戦争でカイロからスエズまでの高速道路をイスラエルが占領したために、エジプトはスエズまでの補給路が断たれ、日用品などの非軍事物資をスエズまで送ることができなくなった。占領しているイスラエルは、検問はするが非軍事物資の補給は認めるのだから問題ないとしているが、エジプトとしては占領そのものが認められないので補給物資を送ることができない。
その間にもスエズの生活は悪化の一方をたどっている。
両国の仲介をしたキッシンジャーは、イスラエルとエジプトの両国に対し、イスラエル占領地を国連監視下に置くことを提唱。ただし、なお戦闘状態が続いているので軍事物資の補給がなされないよう検問は継続するとした。
そして、国連監視下の検問はイスラエル軍が担当するとした。
イスラエルは自分たちの占領が続き、エジプトは一時的に国連の監視下に入るものの、イスラエルの高速道路の占領が終わったと捉えた。
そしてもっとも大切なこととして、スエズの生活の悪化が止まった。

このリアリズムに則った現状の問題解決こそキッシンジャーの基本であり、20世紀のアメリカの外交を、さらには西側諸国の国際関係を知るためにはキッシンジャーを欠かすことができない。

それでいてこの人は理想主義者なのだ。理想主義者であるがゆえにリアリズムに則って行動し続けたのだ。だからこそ外交が成立したのだ。

本書はそのキッシンジャーの反省を追いかける絶好の良書である。