德薙零己の読書記録

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

カロリーヌ・フレスト著「『傷つきました』戦争」超過敏世代のデスロード」(中央公論新社)

オタクが保守と親和性が高いという。

これに対してリベラルを自負する方々から、どうしてオタクがリベラルではなく保守との親和性を高くしているのか理解できないという声があがっている。検閲を否定し言論の自由を守るのがリベラルなのに、検閲を繰り広げ言論の自由を侵害する保守に味方するなどいったいどういうことなのか?

ところが、少し考えれば特に何らおかしなことはなくなる。

リベラルのほうが検閲を繰り広げ、言論の自由を破壊しているのである。

リベラルを自称する人達は既存権力に対して攻撃的に否定することを自らのアイデンティティとしている。言論の自由も、検閲反対も、反権力のための手段であって主目的ではない。文句を言うことが主目的であり、文句を付けている自分に酔いしれることが重要なのであって、自分の文句によって世の中がどうなるかなど何の興味も持たない。自分達の訴えに従ったために社会が変わり、それがさらなる問題となったとしても、それは文句に従った既存権力のせいであって、自分達の責任ではない。

という状況下のまま時間が経過し、リベラルの人達は権力を手にするようになり、それまでの反権力がリアルな権力となっていった。また、リベラルの人達が訴えてきたことも実現するようになった。それでいてリベラルの人達は自分たちは反権力であると考え、現状に対して問題を指摘する一方、あるべき姿に向かわせることどころか、あるべき姿を提示することもない。ただただ文句を言うだけである。

反権力のための題目として言論の自由を訴え、検閲反対を訴えているが、求めているのは彼らの言論がジャマされないこと、彼らの言論が検閲されないことであって、彼らが気に入らないと考える言論は取り締まりの対象になるべきと考え、その意思を隠そうとはしない。

普通ならばそのような考えは断じて許されない。言論の自由を訴えた人間が、検閲の反対を訴えた人間が、いざ権力を握ったら言論の取り締まりを繰り広げ検閲を繰り返すのだから。

オタクが反発しているのはその点だ。オタクは本質的に言論の自由を求める立場であり、また、権力に反抗する立場でもある。そのオタクがリベラルに対し否定的な意思を示しているというのは、言論の自由を求める反権力であるからに他ならない。

オタクは保守に寄り添っているのではない。言論の自由を求め、自分達を弾圧する反権力に抵抗する結果が保守なのである。