「なんでも、生演奏を聴けるレストランだそうで」
「ええ」
「うちもやっているんですが、あなたのお店みたいに上手くいかなくて……」
「うちは作曲者の方が直接演奏してくれますから、その違いでしょうか?」
「そうですか」
「モーツアルトさんってかたなんですが」
「えっ!」
1783年、オーストリアの首都ウィーンでレストランを開業したイグナーツ・ヤーンは、時代の寵児となっていたモーツアルトの生演奏をレストランの名物とし、好評を博した。
現在に生きる我々は、18世紀から19世紀に生きた著名人を歴史上の人物として捉える。著名人達の人生は伝記であり、功績は歴史である。
しかし、同時代においては日常であったのだ。当たり前の生活の中に著名人達の当たり前の暮らしが存在する。食べるし、飲むし、衣服を着るし、住まいを構える。恋をするし、家族との日々や友人達との日常がある。そして、生きていくために職業に就き、現在に生きる我々が歴史上の功績と捉える出来事も、同時代に於いては職業におけるビジネスとして人生の一側面である。
本書に登場する人物の描写を一言で言うと、時代に生きる日常である。歴史上の人物であってもそれは人間くさく、ごく当たり前の隣人であったことが如実に示される。
そして、一つの当たり前のことに気づくこととなる。
当たり前の隣人であるが、フランス革命のように現在でも歴史上の出来事として世界史の教科書に載る大事件に直面し、大事件のあとでいかにして生きていくかに苦悩しているという点である。個で捉えると実感することのできない歴史的出来事と偉人達との日常の交点は、当事者にとって極めて大きなことなのだ、と。
モーツァルトが生演奏をしたのはその一例である。