德薙零己の読書記録

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おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

井上幸治著「平安貴族の仕事と昇進:どこまで出世できるのか」(吉川弘文館)

「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」とはマルクスエンゲルス共産党宣言に記した言葉であるが、それを平安時代に置き換えるとどうなるか?

逆転する。

階級闘争の歴史という視点で捉えると、平安時代より奈良時代のほうが上だ。生まれた家で着くことのできる役職が異なるというのが平安時代である。藤原氏か源氏に生まれなければ国家の中枢に入れず、高階氏に生まれたなら官僚の世界、菅原氏に生まれたなら学問の世界、丹波氏に生まれたなら医学の世界に生きることが求められた。氏族に与えられる役職の限界を超えた地位や役職に就くことは基本的に認められず、例外的に、生涯の功績を特別に認めるとして、現在で言うところの定年退職を迎える寸前に貴族の仲間入りにさせてもらうことがあるかどうかというのが平安時代だ。

その意味で、事実はともかく理論上は生まれに関係なく本人の努力だけで中央政界に身を立てることも不可能ではなかった奈良時代までの律令制のほうが正しいと言えよう。マルクス主義における階級闘争で捉えるなら、律令制のほうが摂関政治よりも進歩的で革新的な仕組みだ。

しかし、庶民生活の生活水準という政治において最も重要な視点に目を向けると、律令制は失敗で藤原摂関政治のほうが正解なのだ。このあたりは、律令制共産主義政権との類似性を捉えていただければ御理解いただけると思うが、徹頭徹尾計画的で、現実と計画との乖離が見られたときに現実を否定してきたのが律令制共産主義政権なのだ。生まれがどうあろうと実力でどうにかでき、マルクスの言うところの階級があっても階級間の流動性が確保されていた律令制の結果が180年間に全国的な飢饉を6回も迎えてしまったという結末だ。一方、進歩的で革新的な律令制とは違い、守旧的で流動性が低い、あるいは流動性がない藤原摂関政治では200年間で全国的な飢饉が1回なのだから、政治の結果について評価すべきは藤原摂関政治である。

藤原摂関政治は生まれで身分が固定され、生まれが定める身分の上限を超えることはほとんど不可能である。人生の全てを職務への専念に注ぎ込んだ末で得られるのが、生まれながらの身分で定められている地位の上限なのだ。

これが正しいとは言い切れない。というより、間違っていると言える。それなのに、結果は出しているのだ。階級闘争の歴史を逆行させ、否定するとどうなるかという歴史の結果は存在している。