德薙零己の読書記録

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ギュスターヴ・ル・ボン著,桜井成夫訳「群衆心理」(講談社学術文庫)

2023年8月2日(水)21時過ぎ、名古屋市のCSアセット港サッカー場で、この日開催されたサッカー天皇杯4回戦の試合終了後に暴動が起こった。翌日の発表によると、暴動に加わった者は最低でも77名。ただし77名の中には暴動を食い止めようとして行動した者もいる。

時系列で言うと、3対0で負けた浦和レッズのサポーターが試合終了後もスタンドに残り、浦和レッズの関係者と向かい合っていた。念のために記しておくと、このような向かい合いは誉められたものではないとは言え、ここまでであれば珍しくない。しかし、試合に勝った名古屋のサポーターが浦和レッズサポーターとの緩衝帯付近まで出向いて暴言を吐いたところ、浦和サポーターが激高して緩衝帯を乗り越え、中にはピッチに降りる者まで出て名古屋サポーターのもとに襲い掛かったという。77名というのは浦和レッズサポーター用エリアを越えた者として確認できている者の総数であり、先に暴動を食い止めようとした者もいたと記したのは、目的はどうあれエリアを越えた者をカウントしているからである。

暴動を起こした者への批判、浦和レッズサポーター全体に対する批判、また、この事件に対する浦和レッズからの処罰の軽さに対する批判、あるいは、暴動のきっかけとなった名古屋サポーターからの暴言に対する批判など多々な言説が飛び交っており、私自身が浦和レッズサポーターであることも踏まえると、それらの言説のどれにも荷担することは許されない。

その代わりに、なぜこのような行動が起こるのかについて、ギュスターヴ・ル・ボン氏の名著「群衆心理」を解説していきたい。

 

本書は1895年に刊行された、集団行動、社会力学、大衆運動の心理学に影響を与え続けている先駆的な著作である。特に、個人が群衆の一員となったときに示す複雑でしばしば謎めいた行動を掘り下げている点で本書は古典的名作でありながら現在も色あせることのない名著となっている。

著者の観察は、政治集会から宗教的な集まりまで幅広い事例に根ざしており、読者は集団行動を支配する根本原理を把握することができる。群衆となることによって個人の合理性が失われ、感情の高ぶり、衝動性、暗示へのかかりやすさを特徴とする集団的思考をもたらす傾向にあるかを強調しているのが本書である。

中でも印象的な点として挙げられるのは、群衆の中での個人の個性の変容についての分析である。群衆の一員となることで個性が失われると同時に匿名性を獲得し、個人に課せられる責任が減り、責任を感じるなら、また合理的判断ができるならばしないような行動を、集団であるために引き起こす可能性があると主張している。

その上で「集合的無意識」という概念を紹介している。彼は、群衆の中では共通の心理状態が生まれ、多くの場合、共通の目標や共有の感情によって煽られることを示唆している。自分は群集心理とは無関係な人間だというのは傲慢な感情であり、誰であれ、集団的無意識に没入したならば個が確立されている状況では取り得ることのできない行動に身を投じる。ゆえに、そのような行動を起こさせないためには、個々の人間に対して律するよう命じるのではなく、行動を起こした者を処罰するのでもなく、行動を起こさせないための環境を構築せねばならない。暴動参加者を全員処罰し牢に放り込んでも無駄である。暴動参加者の所属する集団全体に処罰を与えても無駄である。暴動が起こりうる環境を放置したままでは再度の暴動が起こってもおかしくない。8月2日の例で言えば、今回は浦和レッズサポーターが暴動を起こした当事者となったが、CSアセット港サッカー場の環境だけを見れば名古屋グランパスサポーターが暴動の当事者となったとしてもおかしくないし、他のクラブの試合を開催したとしても、また、サッカー以外の競技を開催したとしても、そこで暴動が起こったとしてもおかしくない。

この概念は、社会学、人類学、政治学などの分野に影響を与え続け、社会運動とその社会への影響の理解に貢献している。本書は19世紀に記された一冊であり、最新研究の詰め込まれた著作ではない。しかし、冒頭に記した8月2日の暴動を見る限り、ギュスターヴ・ル・ボンの研究と洞察は現在でも通用することが証明できてしまう。

 

その上で記さねばならないことがある。

本記事記載時点で日本サッカー協会浦和レッズに対してどのような処罰を下すかはわからない。あるいは、管理責任者としての愛知県サッカー協会に対する処罰もあるかもしれない。しかし、どのような処罰を下したとしても同じことは繰り返される。繰り返す浦和レッズサポーターかもしれないし、他のクラブのサポーターかもしれないし、他のスポーツのファンかもしれないし、スポーツではないかもしれない。政治的な集団化もしれないし宗教的な集団かもしれない。自分は浦和のサポーターではないから、Jリーグのサポーターではないから、スポーツを観に行かないからなどという感情で、自分は暴動に参加した者とは違うと考え、暴動に参加した個人だけでなく、その個人の属する集団に批難を加えるのは、自らが暴動参加者になる可能性が無いと考えている者の傲慢な感情でしかない。今回の名古屋市のCSアセット港サッカー場のように群集心理を発動できてしまう環境を放置し続ける限り、同じことは繰り返される。