德薙零己の読書記録

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

中塚武監編,若林邦彦&樋上昇編「先史・古代の気候と社会変化」(臨川書店)

気候変動から読みなおす日本史 (3) 先史・古代の気候と社会変化

文字史料が誕生する前から日本列島には人間が住み、日々の生活を過ごしていた。夏は暑く、冬は寒く、梅雨の時期には雨が頻繁に降る世界が続いていた、はずである。

紀元前4000年頃に中国大陸から稲作が伝わってからは定住が珍しくなくなり、それまでのように食糧を求めて異動し続ける暮らしが減ってきた、はずである。

そうした「はず」を確定させるか、あるいは否定するか。そうした判定を文字史料では行えない以上、文字史料ではない方法でアプローチしなければ判定もできないのであるが、実は、そうした判定材料は存在するのだ。

地面に。

地面を掘ると過去が出てくる。過去の降水量、花粉をはじめとする過去の植物分布、そして葬祭といった過去が現れ、過去が読み取れる。無論、厳密なものではなく蓋然としたものとなるが、それでも大まかな流れは見えてくる。

本書は無文字時代から古代にかけての日本の気候についての研究成果をまとめた一冊である。人の住まいの痕跡から当時を復元すると、当時の日本人がなぜ農耕を選び、その場に住むことを選び、社会を国家へと発展させていった理由が見えてくる。

さらに時代が進むと文字史料が登場してくる。それは決して牧歌的な内容ではなく残酷な現実を突きつける史料である。これもまた、今から1500年前の日本人が迎えなければならなかった現実であり、歴史学者が見つけ出す現実である。

 

鳥嶋和彦著,霜月たかなか構成協力「Dr.マシリト 最強漫画術」(集英社)

Dr.マシリト 最強漫画術 (ジャンプコミックスDIGITAL)

令和6(2024)年3月8日金曜日、衝撃的なニュースが駆け巡った。

鳥山明氏死去。

このニュースの衝撃は日本国内に留まらず、国境を越えて世界中に響き渡り、鳥山先生の作品を愛する世界中のファンから、鳥山先生の死を惜しむ声が、そして、鳥山先生への追悼の声が寄せられ、鳥山先生がどれだけ愛される作品を生み出してきたかを改めて知ることとなった人も多かった。

しかし、鳥山明ほどの卓越した漫画家であっても順風満帆な漫画家人生であったわけではなく、デビューに至るまでに500ページものボツ原稿を生み出さなければならなかったこと、初連載作品となったDr.スランプを毎週送り出すのに苦労し続けたこと、もっと言えば当初想定していた発明家を主人公とした作品ではなく、その発明家の生みだしたロボットを主人公とする作品となったこと、Dr.スランプを終わらせるためにDr.スランプを超える作品を求められたこと、その作品であるドラゴンボールの苦心、その全てが伝説であり、多くの人の知るところである。

そして多くの人は知っている。

その伝説の全てに絡む人物、すなわち、Dr.マシリトこと鳥嶋和彦氏のことを。

鳥嶋氏は漫画雑誌の編集者になりたいと考えたわけではなく、集英社に入社した後の配属が週刊少年ジャンプ編集部であったという人である。そもそも漫画に精通しているわけではなく、漫画に真正面に向かい合ったのも漫画雑誌編集部に配属されてからという人である。

そのために、従来の編集者と異なるアプローチができた。

マンガを読みやすくすることへのアプローチである。

マンガを頻繁に読む人であれば多少の読みづらさがあっても気にしない。しかし、漫画が数多くのコンテンツ接種手段の一つであるという人にとっては、マンガが読みづらいというのはその作品を敬遠する理由になる。ゆえに、面白いだけでなく読みやすい作品を作り出すことに注力する。さらにここに、ジャンプの人気至上主義が加わる。描きたい作品を描いていれば済むのはアマチュアであり、プロの漫画家であるなら、描きたい作品ではなく読者の求める作品を誌面に送り出さなければならない。

これを鳥嶋氏は徹底させた。

では、具体的にどのように徹底させたのか?

その回答は本書にある。

 

 

木村茂光著「「国風文化」の時代(読みなおす日本史)」(吉川弘文館)

「国風文化」の時代 (読みなおす日本史)

遣唐使が当たり前であった頃、日本の社会は唐からの移植であった。唐の政治制度、唐の律令、唐の文化こそが正解で、唐の社会を日本にも構築することこそ正解と見做されていた。

その唐が無くなった。無くなっただけでなく、その後の五代十国の混乱は日本が手本としていた国が手本ではないことを気づかせるに十分であった。唐の滅亡の前から日本社会に唐の社会を移植しようとする試みは困難であることは露呈していたが、その試みこそが正しいことと信じる人達が強固な存在として国家の中枢に君臨し、現実に法を合わせるのではなく、法に現実に合わせようとしていた。

その結果が、180年間で6回という全国的な飢饉だ。

律令に社会を合わせようとし続けた結果はあまりにも重かったが、律令に社会を合わせようという動きを覆すことはもっと重かった。藤原良房律令制を壊すためにかなりの強権を発動させたが、それでも律令制を覆して現実に即した社会を創り上げるまでに、藤原基経藤原時平と三代を要した。その後の藤原忠平の時代に、律令制崩壊後から200年間で唯一となる全国的な飢饉、すなわち平将門の乱をはじめとする承平天慶の乱を経験することとなったが、その後に待っていたのは藤原道長をピークとする藤原摂関政治の時代であり、その時代は以前よりは良い暮らしを過ごせる時代であった。

だからこそ、有職故実はこの時代を手本とする。

だからこそ、平安朝の文化として思い浮かぶのは藤原道長の時代となる。

だからこそ、現在の人はかの時代の文化を「国風文化」と呼ぶ。

それはナショナリズムの発露ではない。律令に現実を合わせるのではなく、現実主義を選んだ結果である。

中川右介著「文化復興 1945年:娯楽から始まる戦後史」(朝日新書)

文化復興 1945年 娯楽から始まる戦後史 (朝日新書)

昭和20(1945)年8月15日から同年12月31日までを扱う一冊である。

玉音放送の後、主な大都市は焦土と化した日本にあって、大都市が焦土と化していた時期に、映画、演劇、音楽、出版、スポーツなどの文化の担い手たちがどのように再起し、娯楽産業を復興させていったかを詳細に描いている。それまでの抑圧からの解放と同時に、絶望としか評しえない貧困。そして、終わりなき混乱の渦中にあっても、文化の最高に人生捧げた人達の足跡がここに存在する。

  • それぞれの一九四五年八月十五日
  • 八月・動き出す人びと
  • 九月・幕が開く劇場、封印される映画、新しい歌声
  • 十月・檜舞台の役者たち
  • 十一月・禁止された芝居、広がった土俵、放たれたホームラン
  • 十二月・『櫻の園』に集う新劇人

これが本書の目次である。これだけを見ても、昭和20(1945)年の玉音放送から大晦日までの四ヶ月半の混迷と復興の状況を想像していただけるであろう。

しかも本書は紀伝体形式の歴史書でもある。すなわち、一人一人の足跡を追いかけることで歴史を書き記す形式での歴史書である。そのために、かの困難な時代に立ち向かった一人一人の表情がより強固な物となって目に飛び込んでくるはずである。

木暮太一著「すごい言語化:「伝わる言葉」が一瞬でみつかる方法」(ダイヤモンド社)

すごい言語化――「伝わる言葉」が一瞬でみつかる方法

ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いた世界は、ニュースピークと題して言語体系を新たなものに置き換えようとしている過程の世界である。それも執政者にとって都合良く改変しつつある世界である。

たとえば、「1984年」の世界では good はあっても bad はない。good の反対語は ungood である。そのため、執政者たるビッグブラザーに対する反感を抱いたとしても「ビッグブラザーは良くない」と評すしかできない。言語化できない社会では感情を表すことができなくなることを示したこの小説は、全体主義に対する痛烈な皮肉であると同時に、言語が感情を、言語が意識を、言語が概念を生み出すことを明示している。

本書は言語化することによって考えを明瞭化し、訴えたいこと、伝えたいことを的確に表現する方法を示した一冊である。ニュースピークの世界ではないが、言語化できないために感情を表現できないという悩みを抱える人々に向けての「言語化の型」を解説している。「言いたいことがあるのに、言葉が出てこない」「話しているうちに、何が言いたいか見失う」といった悩みを解決するための方法を提供しているのが本書であり、本書を読むことで、伝えたいことを的確に言葉にできるスキルを身につけ、一生役立てることができるようになるはずである。

楠木建&杉浦泰著「逆・タイムマシン経営論:近過去の歴史に学ぶ経営知」(日経BP)

逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知

一言で言うと、残酷な本だ。

何が残酷か。

まさに自分が体験してきたことが、同時代の経済や経営を語るのではなく、歴史なのだという現実を突きつけられる残酷さだ。

自分の体験してきたことが歴史になっていることのショックはともかく、まさに体験してきたことがこれからの生き残りについての大きなヒントとなっていることも痛感する。

本書は経営判断において潜む「同時代性の罠」を回避するための興味深い方法論を提供している一冊である。

本書のポイントから三点を抜き出してみると

  • 【飛び道具トラップ】
    新しいビジネスモデルやトレンドによる同時代性の罠を分析し、経営者が適切な判断を下すための洞察を提供する。
  • 【激動期トラップ】
    大きな変化がゆっくり進むことや技術の非連続性と人間の連続性など、激動期における罠を探求する。これにより、経営者は状況を正確に評価し、適切な戦略を立てることが可能となる。
  • 【遠近歪曲トラップ】
    シリコンバレー礼賛や海外スターCEOの評価など、遠近歪曲について考察している。経営者は、遠近歪曲を避け、客観的な視点で判断する能力を養うことが重要だとするのが著者達の主張である。

といった点が挙げられる。

楠木氏ならびに杉浦氏の今回の著書を読んだとき、私ぐらいの世代の人は新しい知を得るのではなく、既知の再確認になるであろう。そして、その既知が体系化され、未来への指針となってまとめられている本書を重宝することとなるであろう。

私より若い人、特に、20代の若手ビジネスパーソンが本書を読んだとき、現在の日本経済が、そして、世界経済がなぜ現在のようになっているのかの理由を知ることとなるはずである。

現在は歴史の積み重ねの上に成り立ち、その上に未来か築かれる。

歴史を知ることは、現在と未来を知ることである。

中川右介著「第二次マンガ革命史:劇画と青年コミックの誕生」(双葉社)

第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生

昭和20(1945)年8月15日をどのように迎えたか。あの時代を体験した人の多くはその瞬間を、そして、それからの苦労を饒舌に語る。それだけ鮮明な記憶となって脳裏に刻まれている。それからの日本がどのような歩みを見せたかもまた、多くの人が饒舌に語る。苦しさと同時に、それまで立ちこめていた暗雲が消えて自由が手に入ったことを語る。

本書は、我々の生活に溶け込んでいるマンガやアニメーションがいかにして戦後日本文化の中で醸造されてきたかを扱った一冊である。

紙があれば自由に表現できる漫画は多くの若者に表現手段をもたらした。それまでの規制の伴う表現ではなく、自由闊達な表現が紙の上で展開され、マンガという新たな市場を生みだした。マンガは戦前にもあったが、戦前のマンガはあくまでも子供のためのコンテンツのうちの一種類であり、現在のようなマンガは無かった。戦後は戦前の制約が消えた新たな出版文化が誕生した一方、市場としては厳しかった。本を買えるほどの余裕が無い人が多かった。

そこで貸本が登場した。漫画家は貸本であることを前提とした作品を作り出し、読者は読みたい本を貸本から借りて読むという構図を生みだした。書店には返本があるために印刷部数の全てが売上となるわけではないが、貸本は必ず買い取りであるために印刷部数の全てが売上となる。ゆえに出版社としてはリスクが少なく、漫画家としても自分の表現の場として広がることとなる。書店に並ぶ書籍や雑誌について向けられる視線よりも緩いことから貸本は自由な表現が可能であった。ただし、印刷部数自体はそこまで大きな数字ではなく、結果として漫画家の収入も目を見張る物ではなかった。

それが、時代の変化によって一変した。

生活水準向上によって本は借りる物ではなく買う物となったことで貸本が減ったことで出版社にはリスクが降りかかることとなった一方、ヒット作を生み出せば莫大な収入を得るという構図になった。ここに、団塊の世代の人口動態の推移が加わる。幼少期に貸本を愛読していた世代が成長したことで、その世代をターゲットとする出版物を創出するというビジネスが誕生した。さらに、従来の年少者向けの出版物についても月刊誌ではなく週刊誌が珍しくなくなったことで、出版社は漫画家を求めるようになった。

それだけでも構造の変化として十分であるが、ここにアニメーションが加わる。創り上げた漫画がアニメーションとなってテレビで流れることが珍しくなくなると、漫画は単に紙に生み出される文芸ではなくコンテンツの一角を担う表現方法へと変化した。それぞれがそれぞれを補完し合う形で市場は拡大し、ヒット作を生みだした漫画家は莫大な収入を得る条件が整った。

という状態で、日本国は昭和40年代を迎えることとなる。

本書はそれまでの20年間のコンテンツ産業を追いかけた一冊である。