リチャード・セイラー氏の行動経済学は多くの人の知るところであろう。
その上でこう考えていただきたい。
セイラー氏の著書で言うところのエコンをこれまでの政治学はあまりにも巨大に考えていたのではないか、と。
もっとも、これは新しい考えでは無いのかもしれない。デヴィッド・ヒュームからカントにつながる理性への疑いまで立ち返り、経済学に適用すればセイラー氏になり、政治学に適用すれば本書になるのかもしれないということだ。
崇高な理念、崇高な使命、崇高な意思、こうした前提のもとで政治を語るがために、政治的意見や政治的な思考は一段高いところにある、と、政治を語っているまさにその当事者は考えてしまう。
だが、そのようなものはないのだ。
まずは庶民の日常生活があり、庶民の日常生活を良くするための権力として政治が存在する。政治に求められるのは崇高な理念でも崇高な理想でもなく、結果である。
平安時代叢書で何度も書いてきたことであるが、ここでも記す。
政治家に求められる唯一の要素。それは、庶民生活を以前より豊かにすることである。
それができなかったら、どんなに素晴らしい理念や理想も、また、政治家個人の清廉潔白さも、何の意味も持たない。