「何者にも縛られない自由な暮らしをしたい」
この考えは多くの人を魅了するし、実際に抑圧されている社会に生きる人は自由を求めて立ち上がることもある。たとえば1989年に東ヨーロッパで吹き荒れた旋風はその例に挙げることができよう。
さらにこの考えを発展させるとどうなるか?
政府に縛られない。
税負担を拒否する。
そのどちらも素晴らしいことのように感じる。戦前日本のアナ・ボル論争におけるアナーキズムにもつながるこの考えは多くの人を魅了するし、1970年代には実際に、税を廃止したという北朝鮮の宣伝文句を鵜呑みにした日本社会党が、北朝鮮で何を起こっているのか知らず、あるいは知っていても見て見ぬフリをして、金日成を、そして北朝鮮を絶賛していた。
この魅了と絶賛に包まれると、こう考える人も出てくるのではないだろうか?
自分も体験してみたい、と。
その体験は可能である。アメリカのニューハンプシャー州グラフトンに行けばいいのだ。
もっとも、そこにあるのは天国ではないが。
本書は、ニューハンプシャー州グラフトンで繰り広げられた現実を如実に書き記している。
公的負担を引き受けない代わりに、公的扶助は全く得られない。建物も、道路も、壊れたままだ。上下水道といったインフラが壊れても、壊れたことに不満を言う人はいても、直すための負担を引き受ける人などいない。
さらに誰もが命令されないという街であるから、自由を求める人だけでなく、不届者までやって来る。おまけに税負担を引き受けない街であるから、パトカーが壊れてもそのままだ。新しいパトカーを買うどころか、パトカーを直すための予算も、もっと言えば警察官の人件費すらも彼らは否定するのだ。おかげで警察はまともに機能しなくなる。
さらに、人間社会の包み込む自然がある。人間がいかに自然の中に溶け込んで生活することを願おうと、本質的には自然と一線を画した生活環境に身を置こうとする。
具体的に言うと、野生動物に襲われる暮らしなどしたいとは考えない。
もっと具体的に言うと、熊に襲われる暮らしなど望んではいない。
グラフトンは熊に襲われた。それも、住人が熊を呼び寄せる暮らしをしたのだ。熊が近づかないように対処することは可能であったはずだが、縛られることを臨まない彼らは熊に襲われることより命令に従わないことを選んだ。
はっきり言うと本書の多くのページは熊害について割かれている。三毛別羆事件とはまた違った恐怖が本書にはある。
これ以上書くと本書のネタバレになってしまうので自重するが、本書の首題であるリバタリアンだけでなく、アナーキズムを絶賛している人、そして、北朝鮮を理想の楽園と考える人も本書を読んでいただきたい。
そこには理想を求めた末に生まれてしまった地獄が存在しているのだから。