德薙零己の読書記録

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鈴木淳著「関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する」

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災において、埼玉高速鉄道と、埼玉高速鉄道の乗り入れる地下鉄南北線は比較的早い段階で復旧した。そして、多くの人が埼玉高速鉄道を使って帰路に就いた。浦和美園駅までたどり着くことはできてもそこから先は無かった。バス停の行列は延々と続いていた。

東京から放射状に伸びるのが首都圏の鉄道の特徴であり、埼玉県の鉄道の多くも東京から放射状に伸び、武蔵野線川越線野田線といった路線が、放射状に伸びている路線と路線とを横方向で結んでいる。しかし、埼玉高速鉄道武蔵野線との接続ならばできても、川越線野田線への接続は無い。

そのため、何とか浦和美園駅まで来てもそこから先に行くにはバスしか無い。バスで岩槻まで行くことで、野田線経由で春日部方面へ、あるいは大宮方面へと向かおうという人達で浦和美園駅前に行列ができていた。

鉄道が途中で途切れていることが帰宅困難を招いたのが東日本大震災での浦和美園であったが、埼玉県全体を見渡すと、地震と鉄道寸断とが合わさってしまった結果、帰宅困難よりも深刻な事態を迎えた歴史があった。

それは、関東大震災

大正12(1923)年9月1日の関東大震災で埼玉県南部は震度七を記録した。その当時の埼玉県の人口は130万人。関東大震災における埼玉県の被害は、死者217名、負傷者517名、住居全壊4713戸、半壊3349戸という数字であった。

埼玉県の被害は東京や神奈川よりも少ない被害ではあるが、問題になったのは交通が寸断されたこと。

荒川鉄橋の橋脚が破損して鉄道が川口駅赤羽駅との間で寸断され、復旧したのは9月3日になってから。復旧までの2日間で多くの人の命が失われたのである。

東京で被災した人の多くが北へと逃れようとしたが、受け入れることができたのは鉄道が復旧してから。埼玉県に逃れてきた人は9月16日までに54万人を数えた。

54万人も受け入れることができたのではなく、54万人に留まってしまったのである。
現在の東京23区に相当する、関東大震災時点の東京市と周囲五郡(南葛飾、南足立、北豊島、豊多摩、荏原)の人口の合計はおよそ200万人。

現在の東京23区にあたる地域に住む人のだいたい四分の一が埼玉県に避難したこととなる。

現在、東京23区の人口は930万人、埼玉県の人口は730万人を数える。ここに関東大震災と同規模の地震が襲いかかったら、死者も、負傷者も、そして被災地から逃れる人の数も大正時代の比とはならない。建物の堅牢さが当時より優れていることを期待できるが、大正時代より少ない被害と期待すべきではない。

関東大震災クラスの地震が起こったとき、おそらく、埼玉高速鉄道と地下鉄南北線は他の路線よりも早く復旧するであろう。

その路線に乗って被災地から逃れようと東京から北に逃れようとした人達が直面するのが、浦和美園から先に行くことができないという現実である。

埼玉高速鉄道の延伸は、埼玉スタジアムまでのアクセスの改善という面もあるが、災害時の交通インフラという点でも動いておかなければならない話である。

今までどうにかなっていたという理由で、早い段階で動いておけば助け出すことのできた命を見逃すことは許される話ではない。

 

関東大震災 消防・医療・ボランティアから検証する (講談社学術文庫)