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長谷山彰著「罪と罰の古代史:神の裁きと法の支配」(吉川弘文館)

罪と罰の古代史 歴史文化ライブラリー

日本国憲法には以下の条文がある。

第三十一條
何人も、法律の定める手續によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

大日本帝国憲法には以下の条文がある。

第二十三條
日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮󠄁捕監禁審問處罰ヲ受クルコトナシ

法律が罪であると認めなければその行為は有罪とならない、有罪となったならば法に定める範囲での刑罰を科せないという罪刑法定主義は現代に始まったことではなく、古代においても有効であった。

ただし、人類社会が誕生したと同時に罪刑法定主義が誕生したわけではなく、むしろ多くは、法ではなくそのときの感情が刑罰を決定する社会である。自分にとって気にくわないことであるか否かが有罪か無罪かの判断基準であり、有罪であるならば好きなだけ刑罰を加えていいというのが人間の本心というものであり、正義を前面に掲げる人であればあるほど悪とされる存在が残酷極まりない方法で虐殺されても何ら厭わないものである。

正義がもたらす残虐は国家として整備されるに伴い沈静化する。魏志倭人伝には邪馬台国における刑罰についての記載があり、古事記日本書紀には律令制成立以前の刑罰についての概念が記されている。ただし、そのどちらも集団の中において犯罪とされる概念についての刑罰が明瞭化されたものではない。日本において罪刑法定主義が始まるのは大宝律令の、そして養老律令の導入によって始まる。これにより、正義の暴走による残酷な処罰に制限が掛かるようになった。犯罪者本人だけでなく一族郎党にまで罪科が及ぶなど現在からするとありえない刑罰を科すという内容であったが、それでも罪刑法定主義の概念の導入であったことは認めるべきであろう。

ただし、これは現在でも問題になっていることであるが、法は万能ではない。法を定めた時点では想定していなかった、しかし、多くの人がそれは犯罪であると考えることがあった場合、法に基づく処罰は難しい。違法ではないとして無罪放免とすることもあるが、多くは現行法をどうにか解釈して対処し、平行して、法を改正して今後に対応することとなる。また、法を定めた段階では当然の犯罪であり当然の刑罰とされていたことも、その実情を考えると一様に犯罪と言えるのか、犯罪であることまでは認めたとしてもそこまで重大な刑罰を科すのは正解なのだろうかという問題もある。近現代におけるこの二点ついては二つの事例を思い浮かべていただくといいであろう。一点目は明治時代の電気窃盗、二点目は父親に強姦され続けていた娘が父を殺害した際にとわれた刑法第200条の尊属殺について考えていただければ良いであろう。前者については刑法に新たな条文が追加され、後者については親の殺害については死刑と無期懲役しか認めないという刑法第200条が違憲であるという最高裁の審判が下り、現在では刑法第200条が削除されている。

話が長くなったが、このように法が万能ではなく状況に応じた何かしらの対処が必要になるという概念は古代日本にも存在していた。律令には死罪であると明記されていることも、藤原冬嗣による藤原仲成への死罪適用から保元の乱に至るまでのおよそ三世紀半もの長きに亘って日本に死刑が存在しなかったことは注目に値する。厳密に言えば死刑が廃止になったわけではなく法には死刑が残り、死刑が相当する犯罪であっても時代の執政者の仁徳によって刑を減じるのが通例化していたのであるが、それでも法に弾力性を持たせて時代に合わせた対処をしていたことは注目すべきことであろう。

飛鳥時代から院政成立までの380年間は大きく二つの時代に分けることができる。律令が絶対であった律令制の180年間と、藤原摂関政治の200年間である。前者は現実を律令に合わせ、後者は律令を現実に合わせる時代であった。そして注目すべきは、この一点である。

私が平安時代叢書で何度か述べていることであるが、現実より律令を優先させた180年間では全国的な飢饉が6回発生したのに対し、律令より現実を優先させた200年間ではその数字が1回、すなわち、平将門藤原純友の乱の頃の1回のみであったのだ。