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寺西貞弘著「道鏡:悪僧と呼ばれた男の真実」(ちくま新書)

道鏡 ――悪僧と呼ばれた男の真実 (ちくま新書)

日本史上もっとも嫌われた宗教人となると麻原彰晃こと松本智津夫ということになるだろうが、昭和時代までは何と言っても弓削道鏡がぶっちぎりで最低最悪に君臨していた。

何しろ称徳天皇にとりいっただけでなく帝位まで狙ったというのであるから、麻原彰晃レベルで嫌われても当然と言えよう。ただ、ここで振り返らねばならないところがある。大量殺戮を繰り広げた麻原彰晃と違い、弓削道鏡の悪評については同時代史料が乏しい。比較的同時代に近いと言える続日本紀ですら弓削道鏡の時代から四半世紀近く経過してから完成した史書であり、続日本紀弓削道鏡を把握するのは現在に生きる我々が前世紀末のアジア通貨危機を語るようなものだ。しかも、続日本紀はこの国の正史足るべく編纂された歴史書であり、道鏡の記載は出来事の羅列に留まり、逸話たるに相応しい記載は無い。また、歴史の敗者である弓削道鏡を歴史の勝者達が裁いた結果を書き記すこととなるので、客観性という意味でも必ずしも担保が取れているとは言い切れない。

道鏡についての逸話を残している日本霊異記となると道鏡の時代から半世紀、道鏡に対する評価を確定させたと言える日本紀略となると三世紀は経過している。こうなると今に生きる我々が忠臣蔵を評価するようなもので、どんなに素晴らしい研究成果の文章を残そうと、その文章を同時代史料と扱うなど許されない話となる。

そこで、可能な限り客観的評価を弓削道鏡に対して下すとなると、称徳天皇より特別な待遇を受けて僧侶としては例外的な出世を遂げたこと、身内である弓削氏を朝廷の中枢に取り上げたこと、そして、帝位簒奪を計画した宇佐八幡事件の他に挙げられるのは、西大寺建立しかない。しかも、西大寺建立の記録をよく調べてみると、道鏡が絡んでいると思われながらも、道鏡が介在した記録が出てこないのである。いうなれば、たまたま道鏡が厚遇されていた時代に西大寺が建立されただけであり、道鏡とは無関係であったといえるのだ。

すると、中央政界に道鏡が姿を見せてから宇佐八幡事件まで六年もの期間があるにもかかわらず、政治家としての道鏡が何かをしたという記録が寺院建立しかないというレベルを超えて、何もないとするしかなくなるのである。

道鏡称徳天皇の死後に流罪となっている。ただ、皇位簒奪を計画するという、律令に従えば死罪を命じられる大罪に手を染めたにもかかわらず、判決は流罪なのだ。すると、宇佐八幡事件そのものの信憑性に疑念を抱かざるを得ない。また、流罪となった理由は皇位簒奪計画の他に、庶民への強制労働を頻繁に命じたこと、寺院建立と修繕によって国家財政を浪費させたこと、取り締まりを激しくしただけでなく死罪も複数回命じたこと、そして、その取り締まりの中には冤罪が多々含まれていたこと。こうしたことが理由に道鏡は追放の身となったのであるが、どうもこれらは政治家としての道鏡に対する批難ではなく、亡き称徳天皇の治世そのものに対する反発があったのではないかと考えられるのだ。

そして、こうも考えられるのである。

そもそも道鏡はそこまで権勢を振るっていなかったのではないか、何なれば悪まで一人の僧侶であり続けたのではないか、と。公卿補任を見るとたしかに道鏡が地位を手にしたことはわかる。ただ、後世の人が考えるほどに道鏡の専横はなかったのではないか、と。

弓削道鏡の追放と同時に10名の弓削氏が朝廷から追放されているので、弓削道鏡が親戚を取り立てた、あるいは弓削一族が道鏡を利用しようとした可能性ならばあるが……