延暦13(794)年、桓武天皇の時代に平安京へ遷都。以後、平清盛の時代に一時的に福原に都が移された例外の時期を除き、明治2(1869)年の東京奠都まで京都はこの国の首都であり続けた。*1
さて、平安京は現在の京都であるが、京都は平安京とイコールの都市ではない。平安遷都から400年間を一般に平安時代と称するが*2、桓武天皇の時代に計画されたハードとソフトの双方の計画は不磨の大典というわけではなく、平安京遷都から300年も経つと当初の計画から大きく変化し、平安京は京都へと変化していった。特に厄介な問題であったのが、事実上崩壊していた軍事力である。律令は徴兵制を前提とする防人を規定していたが徴兵忌避者が続出し軍として成立しない状態となっていたため、桓武天皇は健児 を制度として確立したが、健児 は早々に制度して破綻し、日本という国家は国軍を持たない国家となった。
その結果何が生まれたか?
軍隊が存在しない国家ではなく軍隊を利用できない国家であり、自分の身を自分で守れなければ殺されるという社会である。国軍を頼れないために私軍を構築しなければならなくなり、私軍は武士として社会の必要悪となっていった。
本書が取り上げているのは、院政期から源平合戦期の京都である。藤原摂関政治が終わりを迎え院政が始まった頃、理念によって建設された都市である平安京は現実に基づく都市である京都へと発展していった。具体的には、平安京の西半分は都市としての機能を失った代わりに、平安京の東の外部に都市が拡張し、鴨川の東も京都の一部を構築する都市へと変貌した。その変貌の過程において、それまで無位無官、あるいは位階や役職を有していても下級役人という位置づけであった武士が貴族社会に姿を見せるようになり、保元の乱、平治の乱を経て、権力そのものが武士の手に委ねられるようになった。それは、理念に基づく都市である平安京から、現実に基づく都市である京都への変貌の過程であった。



