れいわ新選組が共産党より多くの票を集めたことが一部界隈では話題になっているが、この政党の是非はともかく、新選組ならぬ新撰組の誕生した文久三年、西暦で言うと1863年に目を向けると、ジョン・スチュアート・ミルがこの書籍を刊行している。厳密に言えば、本書刊行の2年前に雑誌に三度に亘って連載した論文を一冊の単行本として刊行している。
本書刊行の4年前に、ミルは自由論を刊行している。自由論においてミルは、個人と自由と、個人の自由に対する社会の制限との関係性をとを踏まえ、他者に危害を与えない限り全ては自由であるべきというリバタリアン的理論を提唱しているが、その理論の上にミルは本書において、行動に対する評価を動機ではなく結果に置いている。すなわち、いかなる良き動機に基づく行動であろうと結果が伴わなければ否であり、結果を伴うのであればそれは是であるとしている。
ミルの提唱する感覚的快楽と知的快楽という二つの快楽の対比もこの文面で捉えることができる。ベンサムの言うところの最大多数の最大幸福に対する批判に快楽の均質化があり、ミルはこの批判に対して快楽を分けて考え、満足した豚よりも不満足なソクラテスというかの有名なフレーズを生み出している。この意味でも、ソクラテスの無知の知を踏まえれば、己の動機を是の根拠とはせず、結果に対する直視から逃避することも無い。
さて、ここで冒頭に述べた政党ととしての行動につながる。ミルの、あるいは功利主義の視点で政党の行動を捉えると、政党として行動することと、国民生活が向上することを併記して捉える場合、是とすべきは国民生活の向上である。政治家や政治集団に対する唯一の評価は庶民の暮らしが前と比べてどれだけ良くなったかだけで決まり、悪くさせた、あるいは、暮らしぶりの向上に全く貢献しなかった政治家や政治集団はそもそも評価対象に値しない。
どのような立派なことを唱えていても、その提唱の実現ではなく他者の非難に終始し、提唱の実現の機会があろうと敵と見做した存在と手を組むことなく放置するのは満足した豚でしかない。不満足なソクラテスは敵と手を組んででも提唱の実現の機会を逃さないでいる。