令和6(2024)年10月27日投開票の衆議院議員総選挙に際し、多くの政党が企業・団体献金の禁止を訴えている一方、各政党、あるいは候補者の集めた寄付金を見てみると、企業・団体献金の禁止を訴える者が多ければ多いほど、個人献金が多いことが見てとれる。個人献金については禁止していないどころか推奨しており、個人献金の多さを誇る者すら存在する。
しかし、こうも考える。企業・団体献金と個人献金とはどう違うのか? そして、そもそも献金と賄賂はどう違うのか? 個人献金を集めるということは個人から賄賂を受け取っているということではないのか?
民主主義の始祖たる古代ギリシャの都市国家、特に、アテナイを見てみると、民主主義構築に伴う試行錯誤が見てとれる。ペリクレスは自分に対する賄賂の悪評を回避すべく、贈収賄と捉えられかねない場面そのものに接することを徹底的に忌避してきた。それこそ友人とともに酒を飲むことすら可能な限り避けていた。また、ペリクレスのような自制心に頼るのではなく、そもそも賄賂が効果を持たなくする仕組みを作ることを狙った。ほぼ全ての公職がアテナイ市民の抽選で選ばれ、その任期は一年。誰が公職に就くのか直前までわからず、公職に就いた者に賄賂を送ったところでその者の任期は一年で終わるから、賄賂が何かしらの効果を生み出すことは、不可能とは言えないにしろ困難である。
ところがそれでもアテナイは、さらには民主主義を選択しなかった都市国家であっても、賄賂とは無縁ではいられなかった。ときには賄賂を戦争の手段としても用いることもあった。自らの思いを成就すべく、表立っては記すことのできない方法に頼るというのは、自ら貧困を選び質実剛健を選択したスパルタにおいてですら有効であった。
その延長線上で現代政治における献金を見てみると、良くない未来を感じる。それこそ、企業・団体献金のほうがまだマシなのではないかとさえ感じる。現在の献金の情景、それも、決して富裕者とは言えない個々の人達から金銭を集めるという仕組みが、古代ギリシャで試行錯誤を繰り返した末に衆愚制へと堕し、民主主義そのものを瓦解させた情景に重なるのだ。
この感情は杞憂であってほしいと願うが……



