德薙零己の読書記録

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大石慎三郎著「天明の浅間山大噴火 日本のポンペイ・鎌原村発掘」

杉田玄白天明三(1783)年の浅間山噴火をこのように書き記す。7月9日の午後から江戸川の水が濁りだし、次第に、根から引っこ抜けた大木が、人家の材木が、そして家の中の家具や日用品がどれもこれも粉々に砕け散って流れてきた。その中には手足のちぎれた遺体も混ざっていた。

日光街道幸手宿(現在の埼玉県幸手市)からは、近くを流れる川に、家や倉の壊れた材木、柱、障子、襖(ふすま)、調度品、生えていたはずの樹木、そして、老若男女の遺体が流れてきたという知らせが届いた。

川を流れる遺体と瓦礫の中から上野国(現在の群馬県)の地名のある鞍が見つかり、どうやら上流で何かが起こったことがここではじめて判明した。 以前から江戸でも感じていた鳴動は噴火の前触れであり、7月9日の巨大な鳴動は噴火による大地の鳴動だった。

噴火に巻き込まれて命を落とした人は地獄を体験したが、さらなる地獄を味わうことになったのは噴火で生き残った人だった。家族を亡くし、住まいを無くし、生きる糧を無くした人達は、生きるために逃れようとした。その中には五体満足ではない人も大勢いた。

被災した村を捨てた人達は三日以上飲まず食わずだったが、避難してきた人を迎え入れることのできる村はなかった。命は無事でも、多くの村では噴火による火山灰で田畑が埋まってしまい、このままでは数年は不作に陥ること間違いなしで、食糧を分け与える余裕はなかった。

既に餓死寸前の被災者と、このままでは餓死する未来が見える村人との間で起こったのは、助け合いではなく争いだった。被災者は暴力を頼りに家に押し入って残り少ない食糧を奪おうとし、村人は能力を頼りに被災者を追い出そうとした。残り少ない食糧を守るために。

その間も被災者の数は増え続け、被災者を収容しきれなくなった村の村人は、灰に埋もれた農地を蘇らせるのではなく、自分もまた被災者として他の村に逃れる道を選んだ。こうして、村が一つまた一つと消え、生き残るために村から村へと巡り渡る流浪の群れができあがった。

村に残って田畑を蘇らせることを選んだ者も多かったが、彼らが直面したのは、7月だというのに寒さに震える異常気象だった。噴火した浅間山が吐き出した火山灰が空を覆い、異常なまでに気温を下げた。火山灰を逃れることができた田畑も例年の半分の収穫も得られなかった。

多くの人が絶望したが、絶望はまだまだ始まりだった。 江戸時代の三大飢饉の一つとして数えられる天明の大飢饉はこうして始まった。

どうにかして以前のような食糧事情を取り戻せたのは天明八(1788)年のこと。それまでの六年間は地獄絵図が繰り広げられたのだ。

天明の浅間山大噴火 日本のポンペイ・鎌原村発掘 (講談社学術文庫)