いささめに読書記録をひとしずく

お勧めの書籍や論文を紹介して参ります。

おじいちゃんといっしょドラッカー講座朱夏の陽炎

牧英正著「人身売買」(岩波新書 青版 801)

人身売買 (岩波新書 青版 801)

人手は欲しいがコストは掛けたくないというのもまた、人間の本性である。

本来あるべき形は、労働基準法に基づいて正当な賃金を支払うことである。しかし、世の中にはそのような概念を適用させずに奴隷扱いする人がいる。

本書は、我が国の歴史においてそうした人の需要に応えてきた人の歴史である。

もともと律令では奴隷制を適用していた。奴(男性奴隷)や婢(女性奴隷)とされた人は売買の対象となり、不十分な人権しか得られなかった。平安時代奴隷制が廃止されて人身売買が法で禁じられても、人手が欲しいがコストは掛けたくないという需要は存在し続け、それは拉致という手段で需要に応えることとなった。人身売買が一つの商売となり、その状態は戦国時代まで続き、キリスト教による奴隷売買の一翼ともなった。豊臣秀吉キリスト教を禁止した理由のうちの一つにも、キリスト教を入口とする日本人拉致と奴隷売買を防ぐという点があった。

ただ、それと人身売買の終結とはつながらなかった。江戸時代の年季奉公や吉原をはじめとする性産業は人身売買的側面を含んでおり、明治維新後も満足いく人権を手にできない人生を余儀なくされる人が数多くいた。戦前昭和の貧困に喘ぐ東北地方で娘を売るという光景も続いていたし、売春防止法の施行された昭和31(1956)年まで法制上認められていた人身売買はこの国に存在していたのである。

そして、令和の現在、人身売買とまではいかなくともコスト無しで労力を求める声は存在する。恥ずべきことであるが、自分の言っていることが奴隷主のそれと全く同じであると気づいていない人が存在している。

 

塩沢美代子&島田とみ子著「ひとり暮しの戦後史:戦中世代の婦人たち」(岩波新書 青版924)

ひとり暮しの戦後史: 戦中世代の婦人たち (岩波新書 青版 924)

昭和50(1975)年の本だが、現在と変わらぬ問題がそこにはあった。と同意に、本書には記されていない大問題が、現在には存在するのだと痛感させられる一冊である。

それは、正規・非正規の格差問題。

トマ・ピケティが21世紀の資本として格差の拡大を著したのち、アンサーソングならぬアンサー論文が数多く登場し、それらの論文が「ピケティ以後:経済学と不平等のためのアジェンダ」(青土社)としてまとめられた。

rtokunagi.hateblo.jp

同書には差別を前提とする経済の存在を指摘する論文が掲載されている。

  • 第6章 奴隷資本の偏在性(ダイアナ・ラメイ・ベリー著)
  • 第9章 所得格差、賃金決定、破断職場(デヴィッド・ワイル著)
  • 第15章 世襲資本主義のフェミニスト的解釈(ヘザー・ブーシェイ著)

がそれだ。

第6章は人種差別、第9章は性差別、第15章は雇用形態の違いという差別を扱っている。この3点を差別に対する倫理を完全に捨てて人件費という視点だけで捉えると、安価な給与の雇用に行き着く。雇う側にとっては出費を減らすことができると同時に、雇われている側にとっては既得権になっている。

人件費の削減が資本家の懐を潤すとしか考えないのは短絡に過ぎる。人件費の削減は販売価格の削減につながり、安価販売という消費者還元につながっている。

この社会情勢下で一定の収入を定期的に確保することに成功している者は既得権益受益者になっている。

塩沢美代子、島田とみ子両氏が「ひとり暮しの戦後史」を著した昭和50(1975)年当時は狂乱物価としてインフレが問題になっていたが、それから46年が経過した現在、インフレという言葉は耳にすることなく、モノの値段は下がり、それでいて社会全体が貧困に陥っている。

ここから先は「ひとり暮しの戦後史」を著した両氏が激怒する内容の書き込みになるが、書かずにいられない。

あなた方が本書で指摘した社会問題を解決するためにとった施策の結果が、現在の社会全体の貧困、格差の拡大、正規/非正規の待遇の差別を生みだしているのではないか。

戦争で苦労した、戦後も苦労した、そうした方々にとって暮らしやすい社会にするために、男女差別は減ったものの埋まることはなく、正規/非正規の待遇の差別が生まれ、就業は本人の能力ではなく卒業時の経済状況で左右されるという社会を作り上げてしまったのではないか。

今後、世代間格差を無くそうとする動きが出てくるであろう。正規/非正規の格差を無くそうとする動きも出てくるであろう。

そのときに必要となる議論は、「これからどうするか」ではなく、「これまでのことをどう償うか」である。

最低でもこれまで押しつけられてきた苦労に対する見返りは必要である。

 

中島和歌子著「陰陽師の平安時代:貴族たちの不安解消と招福」(吉川弘文館)

陰陽師の平安時代 -貴族たちの不安解消と招福- 歴史文化ライブラリー

現在放送中の大河ドラマ光る君へでユースケ・サンタマリア氏が演じる安倍晴明は第32話で命を落としている。これは何も番組が打ち出したオリジナルストーリーではなく、史実でも安倍晴明は寛弘二(1005)年に亡くなっている。

さて、安倍晴明と言えば陰陽師陰陽師と言えば安倍晴明というのが創作物におけるお決まりになっているが、村上天皇をはじめとする皇室からお呼びがかかるほどの陰陽師である安倍晴明は数多くの陰陽師のうちの一人であって、平安時代に生きる人にとっての陰陽師はもっと身近な存在であった。

そもそも陰陽師は国家公務員であった。占いも職掌としていたが、カレンダーの編纂や時刻管理、天体観測、気象観測がメインであった。現在のように機械を用いることができないこの時代、観測と人間の計算に基づかなければカレンダーを編纂できない。しかも、平安時代に用いられたカレンダーである長慶宣明暦は唐代中国から伝来したものであるが、発祥の地である中国大陸ではあまりにも複雑な計算のため早々にうち捨てられたのに対し、受け取った側である日本では複雑な計算をそのままこなし続け、江戸時代の渋川春海による見直しが行われる823年間に亘って使用され続けたのであり、その複雑な計算を残し続けることができたのも陰陽師たちが計算し続けてくれていたからである。

先に陰陽師を国家公務員であると記したが、陰陽師の存続していた国家組織を陰陽寮といい、現在の気象庁に相当する組織であった。陰陽師陰陽寮に勤める公務員であり、現在の感覚で捉えると、現在の気象庁に勤める公務員であり、かつ、気象予報士試験に合格した職員と捉えるとわかりやすいであろう。難しい試験に合格した時代を代表するエリートで、かつ、公務員として安定した収入を得られる職業であったといえる。ただし、かなりの激務で、かつ、この時代の迷信にも付き合わされなければならなかったことは考えねばならない。

ちなみにこの陰陽師という職業、中国には存在しない。当時の人は中国由来の思想であると考えていたのと、用語のほとんどが中国語由来であるのと、中国から伝来した思想をベースとしているが、実際には日本独自のものである。

 

 

佐藤卓己著「流言のメディア史」(岩波新書)

流言のメディア史 (岩波新書)

以前から兆候は見えていた。東京都知事選挙で現職の小池知事が再選されたところまでは事前予測の通りであっても、立憲民主党をはじめとする野党各党が推した蓮舫候補が三位になることは予想できなかった。

その後のアメリカ大統領選挙でトランプ候補が大統領に復活することが決まり、兵庫県知事選挙ではメディアから非難を受けていた斎藤元彦氏が再選したことで、既存メディアに対する流れが見えてきた。

ただ、この流れそのものは以前から見えていたし、以前から存在していた。そして、少なくとも2021年に刊行された本書では既に警告されていた。

本書は、1938年の火星人襲来を扱ったCBSのラジオドラマが生みだしたパニックを解説するところから、当時の最先端メディアであったラジオが果たしたマイナスの側面を描き出して始まる。

ならば、既存メディアは問題ないのかというと、関東大震災後の自警団、その前の明治期の西郷隆盛生存説や、米騒動、戦前の凄惨な事件やクーデタなどで新聞が果たしてしまった負の側面、そして、戦前昭和以降の言論統制の実情とメディアとの関係を描き出る。既存メディアもまた危険な流れを助長させていたのだ。

さらにこの危険性は戦後も続く。戦後の言論の自由がかえって、権力批判イコール言論の自由となり、真実や事実よりも権力批判を優先させるメディアの姿勢を作りだしてしまったことを警戒する。本書では、朝日新聞が展開した“従軍慰安婦”をめぐる吉田証言が誤報で合ったことを公表したのは2014年になってからであり、それまでは吉田証言が真実であるとされていたことを取り上げている。何しろ吉田証言は、これ以上ない権力批判の材料だ。真実でも事実でもなくても、権力批判に有効ならば報道するに値するというのがメディアの姿勢であり、真実と事実を報じること、すなわち権力批判をしている自分達が間違っていたと認めることは何よりも耐え難いことなのだ。

また、東京電力福島第一原子力発電所に関係する一連のデマも本書では取り上げられていることも注意すべきところである。もっとも、本書の論調としてはデマのほうに荷担している向きもあるところは注意すべきであろう。

本書に記された既存メディアの報道姿勢は現在も続いている。新たなメディアとしてテレビが加わっても、基本的には変わっていない。

しかし、その次に登場したメディアが時代を変えつつある。

ネットだ。

ネットも、既存メディアも、玉石混淆である。ただ、情報量が大違いであり、玉石混淆であってもネットにおける玉の情報精度は既存メディアの玉の精度を上回っている。しかも、情報の取捨選択が容易であり、権力批判イコール言論の自由という図式は存在しない。ゆえに、既存メディアにはない言論の自由が存在する。

その言論の自由が、これまでの図式を変えつつある。著者は巻末での懸念として挙げていたが、その懸念は現実化しつつある。

ただし、そこでいう現実化は著者の懸念を良い意味で裏切る結果であったと評価できる。

今のところは……

 

 

竹内康浩&朴舜起著「謎ときサリンジャー:「自殺」したのは誰なのか」(新潮選書)

謎ときサリンジャー―「自殺」したのは誰なのか―(新潮選書)

サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」(A Perfect Day for Bananafish)のラストで、シーモア・グラスは拳銃で自らのこめかみを撃ち抜く。いわゆる「グラス家」シリーズの一作目のラストであり、「ライ麦畑でつかまえて」(The Catcher in the Rye)でセンセーショナルを巻き起こしたサリンジャーが三年間の沈黙を破って発表した作品のラストである。

ここまでは人口に膾炙されるところである。

しかし、本書の著者はさらに一歩先を進んでいる。

そもそもシーモアは本当に自ら命を絶ったのか?

この問いから二人の作者はサリンジャーの作品を読みほぐしていき、誰もが感嘆することとなる結論を導き出す。その感嘆の詳細をここで書き記すことはさすがにネタバレに過ぎるので自重するが、サリンジャーの小説を読んだ人ならば圧倒させられる解釈に出会うはずだ。

もう一点、これは書き記すことが許されよう。

「バナナフィッシュにうってつけの日」が冒頭に掲載されているサリンジャー短編集「ナイン・ストーリーズ」はたしかに「ライ麦畑でつかまえて」の三年後の刊行である。しかし、「バナナフィッシュにうってつけの日」そのものは1948年に発表された短編小説である。つまり、「ライ麦畑でつかまえて」より古いのだが、「ライ麦畑でつかまえて」の原型となる作品は1945年12月に掲載されている。そして、その8ヶ月前にサリンジャーアメリカ陸軍の兵士としてホロコールストのひとつであるカウフェリンク第四強制収容所の解放に立ち会い、ナチの残虐を間のあたりにし、PTSDのために入院している。

とりあえず、ここまでは書ける。

これ以上はネタバレになるので自重する。

 

宮坂昌之著「新型コロナワクチン:本当の「真実」」(講談社現代新書)

新型コロナワクチン 本当の「真実」 (講談社現代新書)

このタイトルで上梓されたのは、宮坂氏の、そして講談社の慧眼とするしかない。タイトル的に反ワクチンの人でも手に取ってしまうだろうから、本書によって反ワクチンが減ってワクチン摂取者は増えることも期待できる。

無論、本書の内容は反ワクチンの人が期待するような内容ではない。すなわち、ワクチンについての正しい情報がわかりやすくまとめられ、反ワクチンの主張が科学の前に完全に否定されている。

しかし、本書がマスメディアによって広く取り上げられることはなかった。本来ならもっと話題になっていてもおかしくない書籍であったのに、本書は今となっては、COVID-19のワクチンが話題になっていた頃に刊行された数多の書籍のうちの一冊となってしまっている。

そのあたりの理由はこちらにあるだろう。



マスメディアがこれまでいかに間違っていたかを、マスメディアのリテラシーの低さを嘆きながら書き記しているのだから、本書がマスメディアで大きく取り上げられることはなく、取り上げられたとしても、意図的にこれらのページは外されていた。

 

 

 

里見脩著「言論統制というビジネス:新聞社史から消された「戦争」」(新潮選書)

言論統制というビジネス―新聞社史から消された「戦争」―(新潮選書)

マスメディアが「マスゴミ」と呼ばれるようになったのはいつからだろうか?

読者や視聴者から報道が信じられないという声が挙がる一方、メディアのほうからはネット言論に対する批判的な論調が挙がっている。中にはネット言論の規制を訴える論調まで存在する。恐ろしく危険なことだ。この国がかつてどのような言論統制をしていたのかを振り返り、その言論統制によってどれだけの利益を得ていたのかを思い返すだけで、言論規制を訴える論調そのものがいかに恐ろしいものであるかがあぶり出される。

本書は戦前戦中のメディアがいかに国策に便乗した論調を繰り広げていたかを明らかにする。それも、国からの圧力で言論規制をしたのではなく、自分達から率先して言論統制を掲げたのだ。それも、儲けるために。

現在のメディアの論調は、国に対する賛意と反発という違いだけはあるが、行動様式としては全く同じである。自分達の読者、すなわち特定の政治信条を持つ人に向けた論調を繰り広げ、その論調に反発する声に対して容赦なく弾圧する。反発に対して聞く耳を持たないだけではなく、相手の人権を剥奪してまで弾圧する。

ネット言論というのは、メディアの繰り広げる弾圧に対する反発であり、言論の自由の象徴でもある。内容について極めて大きな問題を包含していることはその通りであるが、一方で既存メディアには存在しない自浄作用も働いている。

規制を求める論調は、言論の自由を奪うという論調である。

まさにこの国がやらかしてきた失態と全く一緒である。

新聞紙しんぶんがみを売るために数百万人の人を殺してきた歴史を顧みることすらできない存在に、歴史を語る資格は、無い。